観応2:正平6年の京都攻防戦

貞和5:正平4年(1349)8月、足利直義は兄・足利尊氏の執事である高師直と対立して失脚した。
このときに直義の腹心の将であった上杉重能・畠山直宗を流罪とすること、直義が政務から引退して当時関東に在った尊氏の子である足利義詮にその地位を譲ることなどが取り決められ、直義は9月に左兵衛督を辞任し、政所としていた下京三条坊門高倉の邸宅を出て細川顕氏邸に移った。10月下旬には鎌倉から上洛してきた義詮がここに入り、政務を執り始めた。そして12月8日、直義は出家して恵源と称したのである。
これで直義と師直の内訌も落着したかと思われたが、未だ問題が残っていた。直義の猶子・足利直冬の存在である。直義が失脚した当時の直冬は長門探題として中国地方に在ったが、尊氏・師直らは直義の軍事力と成り得る直冬の存在を警戒し、同年9月に軍勢を遣わして直冬を九州に逐った。しかし直冬は「両殿(尊氏・直義)の御意」と称して軍勢を集め、のちには北九州の雄族である少弐頼尚の娘婿となって一大勢力を築き上げていたのである。
翌貞和6:正平5年(1350)2月27日、北朝(幕府)は「観応」と改元したが、直冬はこれを認めず、貞和の元号を使用し続けたという。尊氏ら幕府に反抗する意思は明らかである。

この事態を重く見た尊氏は直冬の追討を企図し、10月28日に師直以下4千5百騎(『園太暦』での数字。4,500ではなく4、500すなわち400〜500とする見解もある。なお『太平記』では8千余騎とする)を率いて京都を進発した。
しかしその前々日の夜、直義が京都から脱出して行方を晦ましていた。尊氏らはその情報を得ていたが、直義の行方を捜索させるでもなく、出陣を強行したという。
足利義詮に仁木頼章・義長兄弟、京極高氏(佐々木導誉)らを添えて京都の留守を守らせて出陣した尊氏軍は、11月5日に摂津国兵庫を経て19日に備前国福岡に至り、軍勢の参集を待つためにここに駐留した。しかしこの道中で従軍していた細川顕氏が離脱し、守護領国の讃岐国へと逃れるということがあった。このときは細川一族の細川頼春・清氏に命じて追わせたが、顕氏の撃破も召還もできなかった。
その後も尊氏軍は福岡に駐留して軍勢の参集を待っていたようだが、そこで驚愕すべき情報がもたらされた。出奔していた直義が畠山国清・石塔頼房らを味方につけ、さらには南朝と結んで挙兵に及んだというのである。

10月26日に京都から脱出した直義は、大和国に逃れて越智伊賀守を頼り、ついで11月21日には畠山国清の河内国石川城に入城していた。この間には高師泰・師直の誅伐を命じる軍勢催促状を多数発給している。
直義はこれと併せて南朝への降伏を打診していたようであり、23日にはこれが認められ、これにより以前から直義に心を寄せる武将に加え、南朝軍をも味方に得ることとなったのである。
この直義・南朝連合軍の動きは早かった。22日には大和国の生駒山にて直義党で伊勢・志摩守護の石塔頼房が挙兵、25日には近江国に進軍して京極氏やその一族と激しく戦い、12月4日に近江国の瀬田を経て7日には山城国の石清水八幡宮、9日に宇治の平等院鳳凰堂を占拠するなど、目覚ましい活躍を見せていた。
また、越中守護の桃井直常も直義党として兵を挙げ、直義を援けるべく軍勢を率いて京都へと出陣している。
12月13日には南朝の後村上天皇から直義の降伏を正式に許可する旨の綸旨が発給された。直義はこの請文を17日に提出し、21日に畠山国清を率いて摂津国の天王寺に進み、翌観応2:正平6年(1351)1月7日に石清水八幡宮に入ったのである。

一方、直義が南朝軍とともに蜂起したとの報を得た尊氏らは、直冬の追討を中止して京都の防衛に戻ることを決め、備前・備中・備後国に直冬を牽制するための将を残したうえで12月29日に備前国福岡より帰洛の途についた。年が明けて1月6日には摂津国西宮、10日に至って山城国山崎に到着している。
しかしこの日には京都に在って足利義詮に従っていた斯波高経や二階堂時綱・行朝(行珍)が、13日には上杉朝定・朝房、今川範国が京都から脱出し、石清水の直義のもとへ向かった。
こうした将の相次ぐ脱落や直義軍の圧迫を受けて、抗戦を断念した義詮は1月15日の早朝に京都を放棄して西へ向けて脱出した。このときにも下総守護の千葉氏胤が義詮軍から離脱し、石清水八幡宮へと向かっている。
同日の昼頃には、この義詮軍と入れ替わるように、すでに近江国坂本に布陣していた桃井直常が入京を果たした。
尊氏軍は16日に直義の控える石清水八幡宮への攻撃を予定していたとされるが、桂川付近で撤退してきた義詮軍と合流すると方針を転換し、直ちに京都奪回に向かった。
直義は石清水八幡宮に在って動かず、京都の防衛は桃井勢に委ねられたかたちとなったが、尊氏は自らが二条から、義詮勢が四条河原から兵を進めて桃井勢を包囲攻撃し、数時間の激闘の末に桃井勢を関山まで後退させる戦果を挙げた。
しかし尊氏軍は思いもよらぬ事態に遭遇することになる。合戦に勝利したというのに、尊氏軍の中から直義のもとに参ずる者が続出したのである。これを受けて尊氏は翌16日、奪取したばかりの京都の放棄を余儀なくされ、丹波国へ向けて撤退した。
もはや尊氏不利の情勢を覆すことはできず、この日には信濃守護の小笠原政長、若狭・丹波・伯耆・隠岐の守護を兼ねる山名時氏までもが直義方に寝返り、尊氏の勢威と声望は一気に失墜した。
そして17日には桃井・斯波・千葉らといった直義方諸将が再び入京したのである。