京極高氏(きょうごく・たかうじ) 1296〜1373

京極(佐々木)宗氏の子。母は京極宗綱の娘。京極氏初代・京極氏信の曾孫にあたる。通称は四郎。妻は二階堂時綱の娘。従五位下・佐渡守・左衛門尉。検非違使。
佐々木導誉(ささき・どうよ)の名でも知られるが、導誉(道誉)とは出家号である。
外祖父である京極宗綱の子・貞宗の養子となり、永仁5年(1297)に宗綱が、嘉元3年(1305)に貞宗が没したのちに京極氏の家督を継承する。
はじめ鎌倉幕府執権・北条高時に仕え、元服の際に実名の「高」の字を高時より与えられたとみられる。
正和3年(1314)12月に左衛門尉に任官、元亨2年(1322)には検非違使に任じられ、翌年10月までには従五位下・佐渡守に任じられており、正中3年(=嘉暦元:1326)3月に高時が出家するとこれに倣って出家し、導誉と号す。
元徳3:元弘元年(1331)に勃発した後醍醐天皇軍と鎌倉幕府の抗争(元弘の乱)に際しては鎌倉幕府方に属し、元弘の変で捕えられた千種忠顕を預かっており、元徳4(=正慶元):元弘2年(1332)3月に後醍醐天皇・千種忠顕らが隠岐国に送られた際には、その道中の警固にあたっている。しかし正慶2:元弘3年(1333)に足利尊氏が後醍醐天皇方として決起するに際して同調し、同年の鎌倉幕府の滅亡後に樹立された建武政権下では、建武元年(1334)に雑訴決断所が再編された際にその職員に任じられており、西海道を担当する8番局に所属した。
建武2年(1335)7月の中先代の乱では尊氏と共に関東に下り、これを鎮圧した尊氏が帰還命令に従わず鎌倉に留まったため追討軍として新田義貞が下され、同年12月の手越河原の合戦では足利直義に従って出陣して敗れたが、尊氏が出馬した箱根・竹ノ下の合戦では勝利を収めた。
その後、軍勢を率いて上洛した尊氏は一時的に京都を制圧するも北畠顕家の軍勢に敗れて西走を余儀なくされたが、高氏はこの西走には同行せず近江国に在ったようであり、翌建武3年(1335)6月に尊氏が入京を果たすと、比叡山に拠った後醍醐天皇の軍勢と主に近江国で戦っており、尊氏の覇権獲得に尽力した。
同年11月に尊氏が幕府を創設すると翌月には若狭守護、建武5年(1337)4月には近江守護に任じられるが、いずれも数ヶ月という短期の在任に終わる。
暦応3:興国元年(1340)、白河妙法院の御所を襲撃したため配流に処されたが(妙法院焼討事件)、翌年8月までには幕政に復帰しており、康永2:興国4年(1343)8月に出雲守護に補任され、同年あるいはそれ以前に引付方の頭人に就任した。
翌年3月の引付方の編成替えで頭人から次席に降格しているが、貞和5:正平4年(1349)末には頭人に復帰し、翌観応元:正平5年(1350)5月までは活動の事績が残っているものの、その後に更迭されたらしく、次に引付頭人としての活動が見えるのは延文元:正平11年(1356)に至ってである。また、出雲守護としての職掌も観応2:正平6年(1351)2月に止められたようであるが、翌観応3(=文和元):正平7年(1352)8月までには復職しており、これらの職や席次の浮沈は幕閣内における尊氏党(尊氏派)と直義党(直義派)の勢力争いと連動しており、高氏は尊氏党であったことが窺える。
尊氏党と直義党の闘争(観応の擾乱)が終息したのち、南朝から追討の対象とされた尊氏・義詮父子が弥仁親王(のちの後光厳天皇)を擁立して北朝を再興するに際しての公家との交渉を担い、延文3:正平13年(1358)に尊氏が没したのちは2代将軍となった義詮を補佐し、幕府政治の枢要に在って重く用いられた。観応元:正平5年頃より康安元:正平16年(1561)頃までは政所執事(のちの幕府管領に相当する職)としての活動も見える。また、文和4:正平10年(1355)5月から翌年4月までは上総守護、延文4:正平14年(1359)8月には飛騨守護に任じられて貞治4:正平20年(1365)2月までは在任、延文5:正平15年(1360)10月から康安2(=貞治元):正平17年(1362)8月までは摂津守護職を兼帯した。
幕府人事にも深く関わり、細川清氏斯波義将の政所執事就任と更迭には、高氏の干渉があったとみられる。
鎌倉公方・足利基氏の没後間もない貞治6:正平22年(1367)5月末には鎌倉に赴き、その嫡男で2代鎌倉公方となった足利氏満を補佐した。これは義詮の意を受けて、鎌倉公方の家督継承と関東支配の安定を図ったものと目される。いつまで鎌倉に滞在していたかは不明である。
同年11月までは出雲守護職に在ったが、翌応安元:正平23年(1368)には子・高秀が出雲守護として活動していることから、高氏はこの間に守護職を譲って実質的に政界から引退したと思われる。
応安6:文中2年(1373)8月25日、近江国で没した。享年78。号は勝楽寺殿徳翁導誉。嘉元4(=徳治元:1306)生まれとする説もある。
連歌・和歌など文学にも通じ、『菟玖波集』に81句、『新続古今和歌集』に1首が収録されている。とくに連歌に熱心で、二条良基が延文元:正平11年に私撰した菟玖波集を、導誉は翌年に「武家執奏」というかたちで勅撰に准ずる扱いにするよう申し入れ、後光厳天皇の綸旨を獲得したという。
妻は二階堂氏のほかに「きた」、法名を留阿と号した女性があり、導誉の死後に近江国甲良荘尼子郷を譲られた。この尼子郷は応永5年(1398)6月に「きた」から高氏の孫にあたる高久(京極高秀の子)に譲られ、高秀はこの地を名字として尼子氏を興している。