後醍醐天皇による再度の討幕行動が、鎌倉幕府によって鎮定された事変。
後醍醐天皇は正中元年(1324)に鎌倉幕府の出先機関である京都六波羅探題の襲撃を企てたが、計画が事前に漏洩したために失敗に終わった(正中の変)。このとき幕府は寛容な処置で済ませたが、後醍醐天皇は再び討幕の計画をめぐらせる。
前回の失敗が武士を経た計画漏洩であったことを踏まえ、神社の神人や寺社の僧兵、山伏といった宗教権門の武力を頼ることとした後醍醐天皇は、皇子を座主として比叡山に送り込み、自らも東大寺・興福寺・延暦寺に行幸するなどして連携を図り、隠密裏に討幕の準備を進めたものの、元徳3年(1331)4月25日に至って近臣・吉田定房の密告によって露見した。
これによって5月に討幕運動の中心人物であった者たちが幕府によって捕えられ、日野俊基は死罪、僧の文観・円観らが配流に処されると、身の危険を察知した後醍醐天皇は神器を奉じて8月24日に宮中から脱出して奈良へと向かい、ついで27日には山城国南域の笠置山に移った。
間もなく河内国の土豪・楠木正成が後醍醐天皇に応じて河内国赤坂城に挙兵したが、9月末には笠置山が陥落し、後醍醐天皇は捕えられた。
この間の9月20日には幕府に擁立された量仁親王が践祚して光厳天皇となり、10月には神器も後醍醐天皇から光厳天皇に渡され、翌正慶元:元弘2年(1332)3月に後醍醐天皇は隠岐国に配流されたのである。
こうして元弘の変は鎮圧されたが、間もなくこの事変を導火線とする「元弘の乱」と称される大規模な争乱が勃発することになる。