河内国の土豪。本姓は橘姓で橘諸兄の子孫と称し、父は楠木正遠と伝わるが不詳である。幼名は多聞丸。左衛門少尉。本拠は金剛山西麓の河内国赤坂、または摂関家領の河内国玉櫛荘ともいう。
結城(白川)親光・名和(伯耆守)長年・千種忠顕と併せて『三木一草』と称された。
元亨2年(1322)8月、紀伊国有田郡保田荘荘司の湯浅某が鎌倉幕府に抗した際、執権・北条高時の命を受けて保田荘へ進んでこれを鎮圧し、その功により湯浅某の所領を与えられている。
元徳3:元弘元年(1331)2月に和泉国若松荘を押妨し、その荘園領主である臨川寺から「悪党」と称されている。
正成は、本拠地の赤坂から産出する辰砂(水銀の原料)や金剛砂(研磨材)の採掘権や販売権を有していたとも、荘園領主の雑役を奉仕する散所民の長である「散所の長官」であったともいわれているが、土地に固執した当時の武士とは異なり、畿内西部の鉱山業や流通業に幅広く関わって商業活動を営んでいたといい、この活動の中から醍醐寺の僧の道祐や文観を通じて後醍醐天皇との関係を持ち始めたものと思われる。『太平記』では、天皇の見た霊夢に「樹の陰に南に向へる座席」が設けられていたことから召し出されたと伝えられている。
元徳3:元弘元年8月、再度の討幕計画が漏洩して後醍醐天皇が山城国の笠置山に逃れたことを知ると、河内国の金剛山麓に築いた赤坂城(下赤坂城)に拠って鎌倉幕府軍と戦う。しかし笠置山が幕府軍に攻められて陥落すると、正成は10月21日に焼死したと見せかけて赤坂城から逃亡して再挙を図った。
捕えられた後醍醐天皇は翌元徳4(=正慶元):元弘2年(1332)3月に隠岐へと配流されるが、正成は天皇の皇子・護良親王と呼応し、同年4月には赤坂城を守っていた湯浅宗藤(定仏)を攻め降し、奪還した赤坂城に大修築を加えるとともに、新たに金剛山麓に築いた千早城(上赤坂城)を拠点にして同年の冬より攻勢に出て、正慶2:元弘3年(1333)1月には摂津国の天王寺や住吉、渡辺橋付近などで幕府軍と戦って破っている。
これに対し幕府は正成の首に丹波国船井荘を懸けて討伐に力を注ぎ、同年2月には幕府の命で参集した大軍によって千早城への総攻撃を受けたが、寡兵ながらも数々の奇策でよく支えて鎌倉幕府の滅亡する5月まで持ち堪え、「勇気智謀相兼タル者」と称された。
この正成の活躍は播磨国の赤松則村(円心)や肥後国の菊池氏など、反幕府の武士の蜂起を惹起するところとなり、各地で反幕府の気炎が上がった。これに乗じて後醍醐天皇は閏2月に隠岐より脱出して名和長年に迎えられて伯耆国船上山に拠ると、これを鎮圧するために足利尊氏が派遣されるも、この尊氏が天皇方に寝返って5月に京都の六波羅探題を攻略。正成が千早城に多くの軍勢を引き付けていたために京都の防備が手薄になっており、尊氏に率いられた討幕軍の攻撃を容易にしたともいわれる。
建武元年(1334)2月に討幕の恩賞として従五位下に叙され、検非違使左衛門少尉に再任され、さらに摂津・河内の国司に任じられる。同年5月に新政府の諸機関が新設・整備されるに際し、正成は記録所寄人、雑訴決断所の三番局(山陰道・山陽道担当)奉行、恩賞方の三番局(畿内・山陰道・山陽道担当)奉行に登用され、新政府における中枢的位置を占めた。
同年9月、後醍醐天皇の岩清水八幡宮行幸に際しては足利尊氏らと共に護衛にあたり、11月に北条氏の余党が紀伊国飯盛山に蜂起した際には、高野山の援兵を得て鎮圧した。
建武3年(1336)1月、関東で建武政権に叛いた尊氏が新田義貞の軍勢を破って京都に向けて進撃してくると、宇治川を防衛線として迎撃に出陣。この際、足利軍に容易に陣を張らせないために、平等院付近を一宇も残さず焼き払っている。
11日に足利軍が入京を果たすが、これを追撃してきた北畠顕家や白川宗広・名和長年らと呼応して同月末には足利勢を撃破し、畿内から逐った。
しかし同年3月の筑前国多々良浜の合戦で勝利して勢力を回復させた足利勢が京都に向けて発向し、5月半ばに備中国の戦線を破って東上してきたことを知ると、正成は天皇を比叡山に退避させたうえで足利勢をあえて入京させ、その後に京都を包囲して糧道を断つことを献策したが容れられず、天皇に新田義貞軍と合流して迎撃することを命じられた。
敗戦必至と見た正成は嫡男の正行に後事を託して河内国に送り返し、弟・正季とともに5百(7百とも)余騎ばかりの軍勢で摂津国兵庫に出陣。ここで新田軍と合流して足利勢の迎撃を試みたが、5月25日の湊川の合戦で新田軍との連携を失い、足利勢の包囲攻撃を受けて支えきれず、正季と「7度生まれ変わって朝敵を滅ぼそう」と誓って自刃した。
正成の最期の地は不詳であるが、兵庫県神戸市の湊川神社境内に「楠木正成戦没地」の碑があり、大阪府河内長野市の観心寺には正成の首塚と称する五輪塔がある。
正成の事績については、江戸時代に入って加賀藩主の前田綱紀が画家・狩野探幽に「楠公父子桜井駅訣別図」を描かせ、その讃文には明の朱舜水に撰書させたことによって注目され始めた。また水戸藩主の徳川光圀は湊川に建碑し、正成の天皇への忠誠を『大楠公(だいなんこう)』と称して表彰したので、尊王思想勃興のもととなり、明治維新の思想的背景ともなった。明治元年(1868)に従一位、明治13年(1380)に正一位が追贈されている。
また、正成の父とされる正遠の娘は観世流能楽の始祖・観阿弥の生母であったと伝わる。