湊川(みなとがわ)の合戦

建武2年(1335)に建武政権から離脱した足利尊氏は翌建武3年(1336)1月に軍勢を率いて京都に入ったが、間もなく陸奥国より追撃してきた北畠顕家らの攻撃を受けて西国へと落ちのびた。
しかし光厳上皇から院宣を得てその軍勢と認められ、同年3月の筑前国多々良浜の合戦に勝利して九州を押さえたのちの4月3日、京都奪還を目指して博多を発つ。尊氏は戦備を調えるために秋の収穫まで待とうとしたようであるが、尊氏の西走後も播磨国にあって新田義貞軍の追撃をくい止めていた赤松則村(円心)の要請もあってのことであった。
進発した足利軍は5月5日に備後国の鞆に到着。ここまでの行程に1ヶ月を要している理由としては長門国府での滞在や安芸国厳島神社へ参詣していたことなどが挙げられるが、その実は遅々とした行軍にあって中国地方や四国の武士が合流してくるのを待っていたものと思われる。
ここに5日ほど留まって軍議を重ねた末、少弐頼尚の進言により軍勢を二手に分け、尊氏は高師直を副将として関東や京都から随伴してきた兵で海路軍を編成して瀬戸内海を進み、弟の足利直義は副将の高師泰や九州の少弐・大友氏、中国地方の軍勢を率いて山陽路から進撃することが決められ、5月10日に発向した。

一方、同年2月に尊氏を畿内から追い落したあとの京都では2月29日に改元して建武3年が延元元年となり、3月には新田義貞が中国地方経略のために出陣し、北畠顕家は陸奥国の太守となった義良親王を奉じて陸奥国へと戻っていったが、この頃、楠木正成後醍醐天皇に「義貞を誅伐して尊氏を召し返し、君臣和睦するよう」進言した。その理由として、鎌倉幕府を倒せたのは尊氏の功績であること、義貞が鎌倉を攻略したのは間違いないが諸将はみな尊氏に服しているとし、その証拠として在京していた諸将も(1月の京都での戦いに)勝利した後醍醐天皇方ではなく敗れた尊氏に随従していることを挙げ、さらには西国で力をつけた尊氏が3ヶ月ほどのうちに攻め上って来るであろうこと、そうなったときにはもう防ぎようのないことを重ねて説いたが、これまで後醍醐天皇を援けてきた正成の献策も容れられなかったという。
これは『梅松論』のみに見える一場面である。

5月18日、陸路を進撃していた直義の軍勢は新田方の大井田氏経の拠る備中国福山城を落とした。敗走した氏経は備前国三石城を攻めていた脇屋義助の軍勢に合流したが、この義助も大兵を擁する直義の軍勢を相手にすることの不利を悟り、義貞本隊と合流するために城の包囲を解いて撤退。義貞は赤松則村の拠る播磨国白旗城を攻囲していたが、この事態を受けて京都に急報するとともに、軍勢をまとめて足利水路軍の上陸地点と目される摂津国兵庫に後退した。しかしこの間、浮き足立った新田勢では兵の逃散が相次いだために兵力を大きく減じ、『太平記』の記述では、出征時には10万にも達したという軍勢が後退開始時には6万となり、兵庫に着いたときには2万にも満たなかったという。
義貞からの早馬によって情勢の深刻さを知った後醍醐天皇は楠木正成を召し、兵庫に下って義貞と合力して防戦することを命じたが、これに対して正成は「尊氏が西国から東上してきたということは、その軍勢はおそらく雲霞のごとく多大であろう。対して宮方(後醍醐天皇方)の兵は僅かなうえに疲れており、真正面からぶつかれば勝ち目はない。この際、義貞を京都に召し返し、天皇は比叡山に臨幸していただきたい。正成は河内に下り、敵軍を京都に入れたうえで淀川の河口を押さえて糧道を断ち、弱まった頃を見計らって義貞が比叡山から、正成が河内から攻め入って壊滅させよう」と献策したが今度も容れられず、「この上はさのみ異議を申すに及ばず」として嫡男の正行や3千ほどあったと思われる股肱の臣を河内国に返し、7百騎(あるいは5百騎)を率いて兵庫に向かったという。
この間、足利陸路軍は福山城の攻略後も順調に進軍していたが、海路軍は風待ちのため室津に駐留していた。しかし23日の夜になって待望の西風が吹くとこれに乗って出航し、翌24日の夕方には播磨国の大蔵谷の沖合に投錨。陸路軍もすでに大蔵谷付近に布陣しており、25日が合戦の日と定められた。

そして5月25日、戦いの火ぶたが切って落とされる。
足利陸路軍は3手に分かれて進軍。中央の大手軍は直義・高・大友・赤松のほか播磨・美作・備前3ヶ国の軍勢、左翼の山手軍は斯波高経を大将として厚東武実の分国である安芸・周防・長門の軍勢、右翼の浜手軍は少弐頼尚とその一族の分国である筑前・豊前・肥前国の軍勢であった。
対する宮方は、楠木正成が「湊川の後の山」(会下山)に陣し、新田勢は軍勢を3手に分け、脇屋義助が経ヶ島に、大館氏明が燈籠堂の南の浜に、そして主将の義貞は和田岬に陣した。新田勢は尊氏が指揮する水軍に備えたようである。
足利軍は、細川定禅率いる四国の兵船5百余艘が卯の刻(午前6時)頃に紺辺(神戸)方面に東進するに合わせて、陸上の3軍も進撃を開始。山手軍は鹿松峠から大日峠を越え、夢野に出て楠木勢の右側面を衝く布陣で、大手軍は上野山から会下山下に通ずる道を進撃し、楠木勢と正面から対峙する形となった。浜手軍は海上の尊氏の船団と連絡を取りながら海岸路を進撃し、駒ヶ林の北端から新田勢の側面を牽制する。そして巳の刻(午前10時)、尊氏の御座船から開戦を告げる戦鼓が鳴り渡り、陸上軍は3隊が呼応してほぼ同時に攻撃を開始したのである。
『太平記』では、新田勢が細川定禅率いる水軍の上陸を阻止しようと軍勢を東へ動かしたとし、『梅松論』では、新田勢は細川隊に紺辺から上陸されると退路を断たれて挟撃を受けてしまうことを恐れて浮き足立ち、和田山の陣を引き払ったとする。そして紺辺で細川隊と戦ったが、退路が切り開かれると、京を目指して戦場を離脱してしまったという。
いずれにしても、この新田勢の後退によって会下山麓の楠木勢が孤立することになった。新田勢の後退後に和田岬から上陸した足利海路軍や紺辺からの細川隊、さらには浜手から進撃していた少弐隊までもが楠木勢の包囲に加わったのである。
包囲攻撃を受けることとなった楠木勢7百騎は、陸路軍の大将である直義を討ち取るため一丸となって突破を敢行した。この決死の勢いに押されて直義勢は後退を始めたが、そのときに直義の乗っていた馬が怪我をしたために楠木勢に追い詰められたが、あわやのところで薬師寺十郎二郎という者が駆けつけて防戦したので、直義はこの間に馬を乗りかえて逃れることができたという。
この直義の危急を見た尊氏は吉良・石塔など6千余騎を新手として繰り出して楠木勢を阻み、3刻(6時間)にも及ぶ激しい乱戦の中で楠木勢もついには70余騎にまで減じ、湊川の北にある集落の民家で一族の楠木正季以下の朋輩と共に自害したのである。
また、この自害の間際に、かつての菊池合戦で討死を遂げて正成が忠厚第一と評した菊池武時の子である菊池武吉が様子を案じて駆けつけたが、この武吉も共に自害して果てたという。
その地は不詳であって大倉山南麓の広厳寺が自害の地であるとの伝承もあるが、現在の湊川神社の境内に「楠木正成戦没地」の碑が立っている。
なお、『梅松論』では足利氏の被官・高尾張守(高師業か)の手の者が正成を討ち取り、その首を持参したしている。