細川定禅(ほそかわ・じょうぜん) ?〜?

細川頼貞の子。細川顕氏の弟。鶴岡八幡宮若宮別当となり、卿律師と号す。
建武2年(1335)の中先代の乱ののち、足利尊氏の命を受けて四国・中国地方の勢力を固めるために讃岐国に赴き、同年11月26日に讃岐国鷺田(財田)荘で挙兵、翌建武3年(1336)1月には関東から進攻してきた尊氏軍に呼応して摂津・河内国方面より京都に突入した(建武3年の京都攻防戦)。しかし『難太平記』に尊氏の弟・足利直義が駿河国の手越河原で新田義貞率いる軍勢と戦って敗れたときに定禅が直義に討死を勧めたとあり、『太平記』ではこの手越河原の合戦を12月5日としていることから、定禅の讃岐国での挙兵を不可能と見る説がある。
足利軍は一時は京都を制圧するも、間もなく新田義貞や北畠顕家の率いる軍勢に敗れ、京都を没落して九州へと向かうことになるが、これに際して定禅は細川一族の和氏頼春・師氏・顕氏・皇海・直俊らとともに四国に派遣され、国人領主や寺社の掌握に努めて勢力を養った。
同年5月には九州から東上してきた尊氏の軍勢と合流し、25日の湊川の合戦で四国の水軍を率いて勇敢な上陸作戦を行い、新田義貞勢を撃退するなど足利軍の戦勝に大きく寄与した。
引き続いて京都制圧に至る洛中や洛外などの合戦にも活躍し、建武4:延元2年(1337)8月には和泉国で活動しており、暦応2:延元4年(1339)から翌年にかけては土佐守護職に就いているが、その後の動静は不明で、間もなく没したらしい。