細川頼春(ほそかわ・よりはる) 1304?〜1352

細川公頼の二男。細川和氏の弟。通称は源九郎。従四位下・蔵人・刑部大輔・讃岐守。
元弘の乱の頃より足利尊氏の側近武将として功があり、兄・和氏らとともに尊氏に従って正慶2:元弘3年(1333)5月の六波羅探題攻めに従軍した。同年に鎌倉幕府が滅んで建武政権が樹立すると蔵人に任じられた。
建武元年(1334)の春、宮中の馬場殿で催された射礼において優れた成績を残して名を挙げ、後醍醐天皇より御衣を賜った。
建武2年(1335)7月に北条時行が信濃国で蜂起すると、この鎮定のために尊氏に従って東下(中先代の乱)。その後の京都進攻にも従軍したと思われ、建武3年(1336)1月に尊氏が京都からの没落を余儀なくされると、他の細川一族とともに四国に赴いて再挙に備え、同年5月から6月にかけての京都奪回戦に高名を挙げた。
その後も同年10月には越前国金ヶ崎城に拠った新田義貞の攻撃に参加、建武5(=暦応元):延元3年(1338)5月には和泉国石津で高師直細川顕氏らとともに北畠顕家の軍勢を破る(北畠顕家の征西:その2)など、南朝軍(後醍醐天皇方)との戦いに転戦している。
これらの功績から建武2年から翌年にかけて日向守護に任じられ、暦応4:興国2年(1341)10月には備後守護、同年11月には阿波守護としての活動が見えるが、備後・阿波守護職ともそれ以前より補任されていたと目され、隠退した兄・和氏の地位を継承したものと思われる。
康永元:興国3年(1342)頃より伊予国への進出を始め、同年5月から観応2:正平8年(1351)2月の間は伊予守護も兼ねて同国の南朝軍を追討した。さらに貞和2:興国7年(1346)から観応元:正平5年(1350)までは越前守護としての活動も見える。
この観応元:正平5年に勃発した観応の擾乱には終始尊氏党の有力武将として足利直義党と戦い、その功により侍所頭人・引付頭人を兼ねた。
観応3(=文和元):正平7年(1352)閏2月20日、北畠顕能・楠木正儀ら南朝軍が突如として洛中に突入すると、寡兵で足利義詮を守ってよく戦ったが、七条大宮あたりで壮絶な討死を遂げた。享年49(一説に54)。