足利貞氏の三男。室町幕府の初代将軍となった足利尊氏の同母弟。母は上杉頼重の女・清子。初名は高国。北条高時の一字を受けたものとされる。ついで忠義、直義と改める。下御所・三条殿・錦小路殿とも称される。号は恵源。
嘉暦元年(1326)に従五位下・兵部大輔に叙位・任官。
元弘3年(1333)に兄・尊氏が討幕の兵を挙げた際には行動をともにしてよく支えた。鎌倉幕府の滅亡後には建武政権から恩賞として相模国絃間郷以下15ヶ所の所領と左馬頭の官途を与えられ、同年11月には相模守に補任され、12月に成良親王を奉じて鎌倉に下向して関東の政務を行う。
建武元年(1334)、右兵衛督に任じられる。
建武2年(1335)7月、北条高時の遺児・北条時行が信濃国で蜂起して鎌倉を襲撃すると(中先代の乱)、前年より尊氏を討とうとしたことを罪に問われて預けられていた護良親王を殺害して三河国まで逃れたが、8月に東下してきた尊氏の軍勢と合流して北条残党を駆逐、鎌倉を奪回した。こののち尊氏は後醍醐天皇の勅命に応じて帰洛しようとしたが、このとき直義は途中で新田義貞が襲撃するとの風聞があるとして上洛することを諌めている。
同年12月、後醍醐天皇より尊氏追討の綸旨を受けた新田義貞が来襲するが、この軍勢を尊氏とともに箱根で戦って破り(箱根・竹ノ下の合戦)、敗走する義貞を追って西上して京都を制圧した(建武3年の京都攻防戦)。しかし間もなく陸奥国から追撃してきた北畠顕家勢に敗れ、九州へと向けて西走する。この後、尊氏は後醍醐天皇と対立する光厳上皇の院宣を得たことで朝敵の立場から脱却し、九州を平定したのちに再び畿内に攻め入り、建武3:延元元年(1336)に光明天皇を擁立して室町幕府を開く。
この草創間もない幕府では、諸国の武士を統轄して軍事指揮権・恩賞権を掌握した尊氏と、所領関係の裁判を中心とする日常的な政務を執行する直義との間に権限の分担が行われていた。この二頭政治は豪放磊落な尊氏と謹厳実直で理性的な直義の性格の違いにも適応し、幕政の初期運営に効果があった。しかしその半面で、権力の二極化は必然的にそれぞれの側に随従する勢力を生じさせる危険をも内包していた。直義の幕政運営は守護級の大領主や寺社本所勢力の支持を得たが、畿内・近国の新興領主層および足利氏根本被官層の反発を招くこととなり、こうした複雑な領主層の対立が秩序維持派ともいうべき直義党と、新興領主層を組織した執事・高師直派の対立という形となって表面化したのである。
貞和5:正平4年(1349)6月、直義は尊氏に迫って師直の執事職を罷免させたが、8月に師直が軍事力を恃みに尊氏を恫喝し、直義の後任として尊氏の嫡男・義詮を鎌倉から招いて政務に就かせることを強要したのである。これによって直義は政界からの引退を余儀なくされ、同年12月には夢窓疎石を戒師として出家し、恵源と号した。しかし翌観応元:正平5年(1350)10月末、尊氏・師直らが九州で勢力を増大させていた足利直冬(直義の猶子)を征討するために出陣した隙を衝いて、直義は京都から出奔して大和・河内国で軍勢を募って挙兵するとともに、後村上天皇(南朝)に帰属して尊氏から離反するに至った(観応の擾乱)。
南朝と連携することによって優位に立った直義は翌年2月に師直の一党を排斥することに成功し、義詮・直義の共同執政の形式、実体としては直義による政治が再開されるが、尊氏派との対立は解けず、8月には斯波高経・桃井直常などの勢力圏である北陸に奔った。この北陸行には桃井・斯波・畠山・山名などの武将をはじめ、吉良・上杉・長井・二階堂・問注所などの評定衆・頭人・奉行らがほとんど参加し、儒学者の日野有範・言範なども従っており、直義政治の担い手をここに見ることができる。
その後、近江国を舞台として尊氏方との戦闘と和議が持たれるが和睦には至らず、直義は関東を経て11月15日に上杉憲顕の待つ鎌倉に入る。その一方で尊氏は南朝に帰順することで出陣中の憂いをなくし、11月初旬には直義追討に発向していた。
そして12月下旬、駿河国での尊氏軍との決戦に敗れて降伏、尊氏からの和睦要請を容れて観応3(=文和元):正平7年(1352)1月5日(一説には6日)には尊氏とともに鎌倉に戻ったが、2月26日に鎌倉の延福寺で急死する。奇しくもこの日は、兄弟相克の導火線となった高師直の没日と同じであった。死因は病死とされるが、当時から尊氏の手による毒殺であると噂された。享年47。法名は古山恵源大禅定門、菩提寺の名をとって大休寺殿ともいう。大倉二位大明神。
また、尊氏の死去に先立つ延文3:正平13年(1358)2月には、尊氏の申請によって従二位を追贈されている。
直義は尊氏とともに夢窓疎石に帰依したが、その門流を中心に五山十刹の制度を定め、諸国に安国寺・利生塔を建立したことも、直義の計画といわれている。