斯波高経(しば・たかつね) 1305〜1367

斯波家貞の子。母は大江時秀の女。通称は孫三郎。弟は奥州管領となった斯波家兼。従四位下・右馬頭・修理大夫・尾張守。
元弘の乱には足利尊氏に従って功を挙げ、建武政権の樹立後より越前守護となる。
建武4年:延元2年(1337)には後醍醐天皇の皇子である恒良・尊良の両親王を奉じて越前国金ヶ崎城に拠った新田義貞高師泰らと共に攻め、翌年閏7月には藤島の地で新田義貞を敗死させた。
観応の擾乱」と呼ばれる足利尊氏・直義兄弟の内訌に際して当初は直義に与同し、その後一旦は尊氏に与するが、文和3年:正平9年(1354)末、直義の養子で南朝に帰順していた足利直冬に呼応し、桃井氏と共に京都に侵攻。一時は京都を占拠するも、翌年2月から3月にかけての攻防戦に敗れて文和5:正平11年(1356)1月に再び幕府方に降って赦免され、越前守護職を安堵された。
再三の変転のためか以後は尊氏に用いられることはなかったようであるが、康安2年:正平17年(1362)7月に四男の義将が2代将軍・足利義詮の執事(管領)に補任されたことをはじめとして、五男の義種が侍所頭人、その子・義高が引付頭人として用いられ、高経はその後見役として幕政に隠然たる権勢を誇った。
貞治3年:正平19年(1364)には幕府新第の造営にも尽力している。
しかし政敵の京極高氏(佐々木導誉)との確執や、九州探題となっていた二男・氏経の九州経略の失敗などから義詮の不興を買い、貞治5年:正平21年(1366)8月に京都を追われて一族と共に領国の越前国杣山城に入るが、翌年7月13日に病死した。享年63。