斯波義将(しば・よしまさ) 1350〜1410

名を「よしゆき」とも読む。斯波高経の四男。斯波家長氏経・氏頼の弟。正四位下・治部大輔・左衛門佐・右衛門督。勘解由小路殿。妻は吉良満貞の娘。
康安2(=貞治元):正平17年(1362)3月に13歳で治部大輔に任じられ、同年7月には細川清氏の後任として室町幕府の管領(当時の呼称は執事)に起用され、室町幕府2代将軍・足利義詮を補佐した。
しかし兄・氏経による九州経略の失敗や、父・高経の政敵である京極高氏(佐々木導誉)との確執などから斯波一族は義詮から追討の対象とされ、貞治5:正平21年(1366)8月には京都を逐われて一族とともに越前国に下り、杣山城・栗原城に立て籠もって抵抗したが、翌年7月に高経が没すると赦免されて幕政に復帰するも、この年の11月には細川頼之が管領職に就いている。しかも若狭・越前・越中などの斯波氏のかつての守護領国は未だ返還されず、応安元:正平23年(1368)8月に越中守護にだけ還補されているが、その越中国で同年に桃井直常・直信兄弟らが、永和3:天授3年(1377)6月に国人領主らの叛乱が起こり、この鎮定をめぐって細川頼之と対立するようになった。
永和5(=康暦元):天授5年(1379)1月、大和国の興福寺と十市・越智・秋山氏らの抗争を鎮定するために出兵した際、土岐頼康・京極高秀らが頼之に反発して帰国してしまうということがあり、3代将軍・足利義満はこの両名の討伐と義将の帰還を命じたが、義将は土岐氏と結び、これに呼応した反細川の大名らが軍勢を率いて義満の政所である『花の御所』を包囲して頼之の追放を迫ると、義満もこれに屈して頼之を更迭し、5月3日には義将を2度目の管領職に任ずるに至った(康暦の政変)。また同年11月以降には、畠山基国とのあいだで越中と越前国の守護職を交換するかたちで越前守護に就任。
以後は義満の統治をよく支え、室町幕府の政治組織の基盤を揺るぎないものとした。とくに前管領の頼之の職掌を受け継ぎ、行政・裁判機構の整備にはめざましいものが見られた。その傍らで永徳3:弘和3年(1383)に『竹馬抄』を著し、文武兼備の教養を武士の基本として、心を正直にしたうえで、主君への奉公や他人への采配などを詳しく述べるなど、子孫への訓戒としている。
しかし義将の支持勢力であった土岐氏が康応元:元中6年(1389)に、山名氏が明徳元:元中7年(1390)に内訌を起こしたことによって勢力を減退させ、赦免された細川氏が再び台頭してくると、明徳2:元中8年(1391)3月12日に管領を辞して守護領国の越前国に下った。しかしその2年後の明徳4年(1393)6月5日、細川氏の勢力増大を警戒した義満より3度目の管領職に任じられた。
応永2年(1395)6月に義満が出家すると、義将も7月23日に在職のまま出家して道将と号す。その2日後には武士で初めて右衛門督に任じられており、一条経嗣はこの異例の沙汰を「武臣右衛門督未聞事」と評している。
以後、応永5年(1398)閏4月まで管領として幕政を補佐。翌応永6年(1399)年11月の応永の乱には、嫡男の義重(別称を義教)や後任の管領・畠山基国とともに出陣した。
応永15年(1408)5月に義満が没し、朝廷から義満に太上法皇の号を追贈する議がもちあがった際、義将は先例がないとしてこれを諫めたという。また、義満が寵愛していた義嗣への家督相続を止めさせて嫡男の義持を家督にすることを主張したのも義将であった。このとき管領職に在ったのは子・義重であったが、いかに義将が幕府・将軍家に対して隠然たる影響力を保持していたかを窺い知ることができる。
翌応永16年(1409)6月7日、4代将軍・義持は管領職を義重から義将に代え、4度目となる管領職に就任した義将は直ちに朝鮮との通交を行い、義持の継承を通告するとともに海賊の禁圧ならびに海賊の慮掠した朝鮮人の送還、朝鮮で開版された大蔵経の領与を求めるなどの外交処理を行い、その2ヶ月後の8月10日、管領職を孫の義淳に譲った。これは斯波氏を管領職に定着させて勢力を拡大するためとも、自分が後見できるうちに未だ若年の義淳を人材として育てるため、ともいう。
応永17年(1410)5月7日に享年61で没したが、義将の思いとは裏腹に、その1ヶ月後の6月9日に義淳は管領職を解任されている。