斯波氏経(しば・うじつね) ?〜?

斯波高経の二男。斯波家長の弟。斯波義将の兄。民部少輔、のち左京大夫。
延文5:正平15年(1360)3月に室町幕府2代将軍・足利義詮より九州探題に任じられ、翌康安元:正平16年(1361)10月に豊後国へ下向。少弐・大友氏らを主力と恃んで九州の南朝軍と戦う。しかし半済問題で島津氏を味方につけることはできなかった。
康安2(=貞治元):正平17年(1362)8月、南朝軍の支柱であった菊池武光が豊後国に侵入していた虚を衝いて、征西将軍宮・懐良親王の拠る筑前国大宰府への襲撃を企図し、子の松王丸を大将として少弐冬資以下7千余騎を向かわせた。しかし武光の弟・菊池武義や菊池家臣の城武顕らに筑前国糟屋郡の長者原で迎撃されて敗北を喫した(長者原の合戦)。
貞治2:正平18年(1363)、立て籠もった豊後国高崎城を菊池武光に攻められ、大内弘世を頼って周防国に退く。
その後、探題としての機能を回復することなく京都に帰り、貞治6:正平22年(1367)に出家して嵯峨に隠棲した。法名を道栄という。