南朝の後醍醐天皇の皇子である懐良親王を奉じて北朝に対抗する肥後国の菊池武光は、延文4:正平14年(1359)8月の筑後川の合戦の勝利を経て、康安元:正平16年(1361)8月には九州統治の要である筑前国の筑前国大宰府を制圧し、ここを懐良親王の在所として征西府を置いた。
一方、筑後川での敗戦に九州での勢力減退を見て取った幕府(北朝方)は、一色範氏・直氏父子の撤退以来不在となっていた九州探題の派遣を決定し、その後任として足利一族の名門である斯波氏経が充てられた。この人事は延文5:正平15年(1360)の3月頃には決定され、将軍の足利義詮は九州における有力な北朝方の武家である大友氏時らに報じているが、実際に氏経が九州に下向してきたのは翌弘安元:正平16年の10月、つまり南朝方が大宰府を制圧したあとのことで、探題館の置かれていた筑前国は南朝方の勢力が強くて入れず、大友氏を頼って豊後国に入るという状況であった。しかも氏経は九州入りに際し、自分の乗る船から士卒の船に至るまで遊女を伴っての赴任だったという。
斯波氏経の九州下向後より大友氏時が幕府と連携して種々の画策を図っていることを見て取った菊池武光は、九州北朝方の中核となっている大友氏を叩くことが肝要と考え、康安2(=貞治元):正平17年(1362)の夏頃にはこの攻略に向け、豊前国に兵を動かした。
しかしこの進攻戦は劣勢を強いられ、特に同年8月7日には南朝方豊前守護代の菊池武盛らが戦死するという敗戦を喫するなどしており、戦況は捗々しくなかった。
この南朝勢劣勢の報は周辺にも伝播し、北朝勢の機運を盛り上げる。これに愁眉を開く思いだったのは少弐冬資であろう。少弐氏の本姓は武藤氏であるが、世襲する大宰少弐の官職から少弐氏を称していた。大宰少弐とは大宰帥や大宰大弐の下にあって大宰府の実効支配を担う職であり、当時は既に有名無実化していたが、この職名を世襲してきた少弐氏にとって大宰府は本貫地であったが、先述のように懐良親王や菊池氏に大宰府を追われて以来、冬資は大友氏の庇護を受けて豊後国に逼塞していたのである。
菊池武光は敗戦を重ねながらもなお大友氏の本国である豊後国を目指し、9月9日には豊後国の府中にまで進出した。
これを見た斯波氏経は、武光が豊後国に進んでいる虚を衝いて、今や九州南朝方の本拠となった大宰府の奪還を企て、子の松王丸を大将とする少弐冬資や肥前国の松浦党からなる7千余騎の軍勢を筑前国に向かわせ、この急報を得た武光の弟・菊池武義は迎撃のため、5千余騎を率いて大宰府から出撃した。
この両軍は9月21日、筑前国糟屋郡の長者原で激突した。戦況は数に勝る斯波軍が優勢で、菊池方の主だった武士3百余が戦死し、大将の武義も身に3ヶ所の傷を負うなど菊池軍は苦境に立たされたが、斯波方の予想を裏切って豊後国から豊前国を経て引き返してきた菊池武光が合流したこと、とくに菊池一族の城武顕の伏兵を用いた奇襲などによって菊池軍が盛り返し、斯波軍の4百以上を討ち取るという逆転勝利を得たのである。