菊池武光(きくち・たけみつ) ?〜1373

菊池氏第12代・菊池武時の子。菊池武重武敏の弟。通称は豊田十郎。肥後守。法名は聖巌。菊池氏の本領である肥後国菊池ではなく、益城郡豊田荘に拠っていたとみられる。
貞和元:興国6年(1345)3月、北朝(武家)方の合志幸隆に占領されていた菊池氏の本城・深川城(菊ノ城)を阿蘇(恵良)惟澄の助力を得て奪還し、菊池氏の惣領職を実力で確保した。
武光は貞和4:正平3年(1348)に後醍醐天皇の皇子で征西将軍宮の懐良親王を菊池に迎えて、それまで詰の城であった隈部山城を菊池の本城とし、九州における南朝方の中心とした。
観応2:正平6年(1351)9月、懐良親王を奉じて阿蘇惟澄らとともに筑後国に侵攻。北朝方の力を二分していた九州探題・一色範氏足利直冬を擁する少弐頼尚の対立を利用し、はじめは九州探題勢と結んで文和元:正平7年(1352)11月には直冬を長門国に逐い、そののちに少弐頼尚と連合し、文和2:正平8年(1353)2月、懐良親王をはじめ阿蘇惟澄らとともに筑前国針摺原で一色軍と戦い、これを破った(針摺原の合戦)。この勝利によって九州の南朝勢力は勢いづき、文和4:正平10年(1355)8月に懐良親王や弟の武澄、五条良氏や少弐頼資らとともに肥前・豊後国に侵攻、大友氏泰を降伏させ、さらに一色範氏を長門国に逐った。
延文3:正平13年(1358)末頃より少弐頼尚は大友氏時と結んで南朝勢の追い落としを図るが、武光はこれに果敢に挑み、延文4:正平14年(1359)7月に懐良親王以下の南朝軍とともに筑前・筑後国境にまで出陣、8月6日の夜襲をきっかけにして少弐・大友連合軍を破った(筑後川の合戦)。この事態を重く見た北朝の後光厳天皇は懐良親王や武光の追討を命じる異例の綸旨を下している。
康安元:正平16年(1361)7月には少弐頼尚を豊後国に逐って大宰府を攻略、ここに懐良親王の在所と征西府を移す。さらには少弐氏残党を追討して筑前国をほぼ制圧した。
貞治元:正平17年(1362)8月には大友氏時領の豊前・豊後国に侵攻している間隙に、北朝残党を糾合した九州探題・斯波氏経によって大宰府を攻められているが、翌月に家臣の城武顕らの活躍によって逆転勝利を得た(長者原の合戦)。
斯波氏経、渋川義行に次いで九州探題に任じられた今川了俊(貞世)が先遣隊として子の義範を応安4:建徳2年(1371)7月に豊後国高崎山城に送りこむと、武光はこれを攻めたが陥落させることができず、その間に了俊の弟・今川仲秋の軍勢が肥前国より侵攻してきたことを知ると、高崎山城の包囲を解いて大宰府の防衛にあたったが、九州探題軍の攻撃を支えきれず、応安5:文中元年(1372)8月に懐良親王を奉じて大宰府から撤退し、筑後国の高良山に落ちた。
その後も高良山を本営として九州探題軍に抗戦を続けたが、応安6:文中2年(1373)11月16日に没したという。