菊池武敏(きくち・たけとし) ?〜?

菊池武時の子。菊池武重(木野)武茂らの弟。通称は九郎。掃部助。
正慶2:元弘3年(1333)5月に鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇による新政が開始されると、父・武時の功績によって掃部助に任じられた。
建武2年(1335)に足利尊氏が建武政権に叛くにおよび、兄で菊池氏惣領の菊池武重は後醍醐天皇方として京都で新田義貞の軍に属して出征していたが、尊氏が発した新田義貞誅伐の檄に応じた少弐頼尚に対抗するため武敏は本拠の肥後国菊池にあって兵を挙げ、12月には少弐氏の本拠である筑前国大宰府を攻めるために出陣したが、少弐勢の安芸貞元・詫磨貞政らと戦って敗れて退き(童付(わらわつき)の合戦)、翌建武3:延元元年(1336)1月には大宰府からの軍勢に菊池氏本城の深川城を攻め落とされ、阿蘇に逃れた。
しかし2月に至り、少弐頼尚が九州に下向した尊氏を出迎えるため長門国に出発した機を計って挙兵に及び、阿蘇惟直らとともに筑後国に進攻。27日には上妻郡で詫磨氏らを破って大宰府に入り、29日には太宰府を守る少弐貞経を有智山城に攻めて破り、自害へと追い込んだ。
この勝利に乗じて筑前国多々良浜で尊氏や少弐頼尚の軍勢と戦うが、松浦党などそれまで菊池・阿蘇陣営に与していた武士が寝返ったために形勢は不利となり、敗戦を喫した(多々良浜の合戦)。
この戦いで阿蘇惟直らが討死、武敏は本拠の菊池に拠って防戦するも、3月中旬に城を落とされている。しかし尊氏が4月に九州を去って東上すると再び挙兵して北九州各地に兵を動かし、抵抗を続けている。
菊池氏の惣領である武重が畿内に出仕して不在の間は武敏が国許で惣領代行のような地位に在ったが、建武4:延元2年(1337)初頭頃に武重が帰国したのちは補佐役に徹したようであり、武重の死後に弟・菊池武士が惣領になると引き続いて補佐にあたっている。
生没年ともに不詳であり、建武4:延元2年4月の肥後国益城郡犬塚原の合戦で重傷を負ったともいわれるが、暦応2:延元4年(1339)6月には起請文を提出し、暦応4:興国2年(1341)6月頃までは生存していたと目されており、一説には72歳で死去したともいう。