肥後国菊池氏の一族。菊池武時の子。通称は五郎。菊池武重の弟。菊池武士・武吉・武敏・武光らの兄。対馬守。木野氏を称す。
菊池一族の団結強化のために企図されたと思われ、暦応元:延元3年(1338)から康永元:興国3年(1342)にかけて一族12名、7通から成る起請文群において、当時の菊池氏惣領であった兄・武重に次いで暦応元:延元3年8月15日に起請文を提出していることから、格としては武重に次ぐものであったと推察される。また、この起請文の文言から教養の高さが窺われ、武重が招いた鳳儀山聖護寺の僧・大智と師弟関係にあったと目される。
同年末頃と推測される武重の没後、その同母弟であった武士が菊池氏の惣領となると、年長者としてこれを補佐した。とくに、軍事面での功績が顕著であった武敏の動向が不詳(あるいは死去)となる康永元:興国3年(1342)以降は一族の長老格として家政を統括した。同年8月に武士が提出した起請文の第一条には「対馬殿・林原殿・島崎殿・須屋殿の同意を尊重する」旨が記されており、続く第二条には「対馬殿の申されることでも、人々の意見が一致しなければ用いない」とあり、内談衆あるいは寄合衆と称される家政機関の内でも重んじられた存在であったことがわかる。
しかしこの頃の菊池氏は、康永2:興国4年(1343)3月から5月にかけて豊後国大友氏の軍勢から菊池本城に攻撃を受けるまでの圧迫を受けるなど威勢は振るわず、武茂自身は南朝方征西将軍宮・懐良親王の将である中院義定に従軍して筑後国へと侵攻したが、拠点とした筑後国山門郡竹井城(萱津城)を同年5月から北朝方の九州探題・一色範氏率いる軍勢に攻められ、防戦に努めたが支えきれず同年7月に脱出し、竹井城は落城した。
武茂の軍事行動で知られるのはこの攻防戦のみであるが、その後の康永3:興国5年(1344)1月に惣領の武士が隠退の意思を表明しており、これらの不振を受けて武士・武茂体制が批判に晒されたためであろうと思われる。
この後の武茂の史料上での消息は不明となる。