菊池武時(きくち・たけとき) 1292?〜1333

菊池氏第12代当主。菊池隆盛の二男。幼名は正竜丸。通称は二郎。出家して寂阿と号す。
武時の父・隆盛はその父の菊池武房に先立って死去したため、隆盛の長男であった菊池時隆が武房の嗣子となったが、武房の死後に時隆と叔父の武経が遺領争いで死んだため、その跡を武時が継いだ。子に武重・頼隆・武茂・隆舜・武澄・武吉・武豊・武敏武光・武隆・武士・武尚・武義らがいる。
正慶2:元弘3年(1333)、配流地の隠岐から伯耆国船上山に脱した後醍醐天皇が討幕の決起を促す綸旨(実際には護良親王の令旨か)を下した際には、武時は密かにこれに応じる意思を固めつつも鎮西探題・赤橋(北条)英時の招集に応じ、3月11日に博多に到着してその翌日には探題館に出仕しているが、遅参を理由に侍所・下広田久義に名簿の記入を拒否された。これは武時が鎮西探題の襲撃を企てていたことを察知されてのことであろう。
武時は一族や阿蘇大宮司の阿蘇惟直らとともに13日未明に博多に火を放ち、天皇方に与することを表明。これとともに、かねてから密約のあった少弐貞経大友貞宗らにも決起を呼びかけるが、少弐・大友らは天皇方不利と見て探題方に付き、武時の使者を斬るなどして裏切った。
それでも武時は錦旗を掲げて探題襲撃を決行し、櫛田浜口で探題方の北条武蔵四郎・武田八郎らと戦い、探題館にまで攻め入るも、苦戦の末に子・頼隆とともに討ち取られた。さらに弟の入道覚勝らも討死したが、嫡男の菊池武重は阿蘇惟直とともに脱出し国に帰った(菊池合戦)。
討ち取られた武時・頼隆・覚勝らの首は犬射馬場に晒された。墓所は福岡市七隈字椎木と谷字馬場頭の2ヶ所が胴塚・首塚として知られている。
武時らの鎮西探題襲撃は失敗に終わったが、5月7日に京都の六波羅探題が足利尊氏らに、22日には鎌倉が新田義貞らによって相次いで陥落させられて鎌倉幕府は滅亡した(鎌倉の戦い)。鎮西探題も、情勢を読み取って後醍醐天皇方に転じた少弐貞経らによって5月25日に落とされている(博多合戦)。こののちに後醍醐天皇の建武政権が樹立されると、その主将のひとりである楠木正成から「武時は勅諚により一命を落とし、忠厚第一」として賞せられ、恩賞として嫡子・武重は肥後守に任ぜられた。