菊池武吉(きくち・たけよし) ?〜1336

肥後国菊池氏の一族。菊池武時の子。菊池武重の弟。通称は七郎。他の兄弟に武茂・武澄・武敏武光・武士らがいる。
正慶2:元弘3年(1333)3月の菊池合戦で父・武時が討死し、そのあとを継いで菊池氏惣領となった兄の武重が京都に出仕するに際してその片腕として随行したと思われ、武重とともに新田義貞に属して建武2年(1335)12月の箱根・竹ノ下の合戦に出陣している。
建武3:延元元年(1336)3月には武重とともに新田義貞に属して中国地方の経略戦に出征したが、足利尊氏が九州から軍勢を率いて攻め上って来ると、5月25日に摂津国兵庫で防戦に努めたが敗れた(湊川の合戦)。
この戦いで新田勢は京へ向かって敗走したが、武吉が武重の命を受けて友軍の楠木正成の様子を見に行くと敗れて自害する場に行き合わせ、「この場にあってどうしておめおめと見捨てて帰ることができようか」と、ともに自害して果てた。
『太平記』ではこの人を菊池武朝としているが、誤りである。