菊池武朝(きくち・たけとも) 1363〜1407

菊池武政の子。幼名は賀々丸。初名を武興。肥後守。
祖父の菊池武光に続いて父の武政が没した応安7:文中3年(1374)3月に12歳で家督を継ぎ、一族の菊池武義・武安らの補佐のもとに菊池氏惣領の地位に就く。
菊池氏は建武2年(1335)の建武政権分裂時より一貫して南朝方であり、武朝も後醍醐天皇の血脈を伝える懐良親王・良成親王を奉じて九州探題・今川了俊に対抗するが、応安7:文中3年8月に福童で戦って敗れ、同年10月初旬頃には大宰府陥落後の応安5:文中元年(1372)8月より本陣としていた筑後国高良山より撤退して本拠の肥後国に後退した。
永和元:天授元年(1375)8月、了俊の失策に乗じて水島の陣で九州探題軍を破る。翌永和2:天授2年(1376)には肥前国に軍勢を進めるも、翌永和3:天授3年(1377)1月の蜷打の合戦、同年8月の肥後国白木原・臼間野の合戦などで次々と敗れ、また永和4:天授4年(1378)9月には肥後国詫摩(詫麻)原で激戦の末に勝利を収めるが、了俊が本陣としていた隈元(隈本)城を動揺させることはできず、康暦元:天授5年(1379)8月に平尾城や坂井城を落とされたのちは九州探題軍の長期対陣を許し、永徳元:弘和元年(1381)6月22日には菊池本城(隈部城)を逐われた。
その後も良成親王を奉じ、肥後国八代の名和氏と呼応して九州探題軍に抗戦を続けたが、明徳3:元中9年(1392)閏10月の南北朝合一後、武朝は了俊と講和して本拠の菊池に帰還し、了俊の九州経営に協力したとみられる。
しかし了俊が応永2年(1395)閏7月に京都へ召還され、その後任として赴任した渋川満頼とはしばしば対戦しており、応永12年(1405)、幕府は阿蘇惟村・詫磨満頼らに武朝を討つよう命じている。
応永14年(1407)3月18日死去。享年45。