今川了俊(いまがわ・りょうしゅん) 1326~?

今川範国の子。今川範氏の弟。了俊とは出家号で、実名は貞世。従五位下・左京亮・伊予守。九州探題。歌人としても著名。
少年時より祖母の香雲院や父の範国より和歌の手ほどきを受けて京極為基に学び、為基の斡旋で『風雅和歌集』に了俊の和歌が1首採択されている。さらには青年期より冷泉為秀に学んで冷泉派歌学の担い手となった。また、吉田兼好とも親交があり、兼好の死後はその従者・命松丸を引き取っている。
30歳頃からは周阿・二条良基らに連歌を学んだ。
観応の擾乱末期の観応2:正平6年(1351)12月に父・範国とともに足利尊氏方として駿河国薩埵山に出陣しているが、これが武将としての初見である。文和4:正平10年(1355)3月の東寺合戦には、細川清氏の軍勢に属して従軍しているが、清氏が康安元:正平16年(1361)に南朝方に転じ、同年12月に南朝軍として京都を占拠すると、その討伐に従軍している。
貞治5:正平21年(1366)12月までには侍所の職に就いており、山城守護を兼任。また貞治6:正平22年(1367)6月には父のあとを受けて引付頭人となり、応安元:正平23年(1368)4月に弟・今川仲秋(国泰)と侍所頭人を交代するまでは侍所と引付の頭人を兼ねていた。
この間の貞治6:正平22年12月の2代将軍・足利義詮の死去を機に剃髪、出家して了俊と号した。文書に見える「了俊」の名の初見は貞治7(=応安元):正平23年1月15日である。
応安3:建徳元年(1370)6月、職責を果たし得なかった渋川義行に替わって九州探題に任じられると9月には引付頭人を辞し、本国の遠江国に戻って準備を調えたのちの応安4:建徳2年(1371)2月に赴任の途についた。これに際して備後・安芸国の守護に任じられている。
了俊の九州豊前国への入部は12月半ばになってからのことであるが、この間にも中国地方や九州の諸氏と音信を通じ、同年7月より子の義範を豊後国に、弟の仲秋を肥前国に派遣し、南朝方征西府の置かれた筑前国大宰府を包囲する前段を築かせている。
応安5:文中元年(1372)8月、九州南朝軍の中心である懐良親王菊池武光らの拠る大宰府を攻めて陥落させて筑後国高良山に逐うも、以降は戦況が膠着したため九州の3大守護勢力であった少弐冬資大友親世島津氏久の来援を得て事に当たろうとしたが、水島の会戦の直前の永和元:天授元年(1375)8月に「二心あり」として少弐冬資を謀殺したことから、少弐氏の勧誘に尽力した島津氏久に叛かれ、水島からの撤退を余儀なくされた(水島の陣)。しかしこの少弐冬資謀殺はその後の探題権力の強化につながり、九州経営を有利に導くようになったという側面もある。
この件で島津氏への対策という新たな問題を抱えることになったが、島津氏の支配に反発する薩摩・大隅・日向国の国人領主に働きかけて永和3:天授3年(1377)10月に63名から成る一揆を形成してこれにあたらせている。
また同年より高麗と対外交渉を持ち、倭寇の鎮圧に協力。これによって交易に利益をあげたほか、九州全域を海上からほぼ掌握したことで九州南朝方に通じる海賊を牽制することになり、戦略的見地においても有効であった。
永徳元:弘和元年(1381)6月には菊池氏の本拠である隈府(わいふ)城と良成親王の拠る染土城を攻略して九州南朝軍を衰退に追いやり、残された課題は島津氏対策を中心とする南九州経営であったが、至徳4(=嘉慶元):元中4年(1387)に島津氏久が没したことをきっかけとして、好転の気配を見せる。
明徳3:元中9年(1392)閏10月に南北両朝が合一したのちは行政に意を注いだが、応永2年(1395)閏7月に至って京都に召還され、25年間に亘る九州探題職ならびに兼帯していた諸国の守護職を解任された。これに際して駿河半国の守護職(一説には遠江半国の守護職も)を与えられているが、事実上の更迭であった。この理由については、幕府中枢における有力な支持者であった細川頼之が没して斯波義将が管領職に就いたこと(後任の九州探題となった渋川満頼の妻は斯波義将の娘)、南北朝合一による幕府の九州統治政策の転換、そして大友親世・大内義弘らによる讒言、などと見られている。
召還された了俊は不満を抱きながらも8月下旬に着京し、のちに本拠の遠江国に下った。
応永6年(1399)の応永の乱に際し、大内義弘と鎌倉公方・足利満兼との連携に関わったとして応永7年(1400)1月に将軍・足利義満の追討を受けたが、降伏の意を示したこと、九州探題としての忠功に免じて許され、のちに上洛した。
以後は政治面から一切隠退し、和歌・連歌の指導と述作活動に余生を送り、多くの著作を残した。その代表的なものに、連歌書の『下草』、歌学書の『二言抄』『言塵集』『師説自見集』『了俊一子伝(了俊弁要抄)』『了俊歌学書』『歌林』『了俊日記』『落書露顕』などがある。また詠歌の手引きとして『明題和歌全集』、紀行文に『道ゆきぶり』『鹿苑院殿厳島詣記』、故実書に『今川了俊書札礼』などがある。さらに『太平記』に対する批判とともに、今川家の所伝や応永の乱における自身の立場を弁明した『難太平記』も著している。
没年は不詳であるが、応永19年(1412)から同25年(1418)の間に遠江国堀越で没したと考えられるので、87歳から93歳の長命であったことになる。