渋川義行(しぶかわ・よしゆき) 1348〜1375

渋川直頼の子。母は高師直の娘。武蔵守。叔母にあたる渋川幸子(こうし)は室町幕府2代将軍・足利義詮の正室。
18歳のときの貞治4:正平20年(1365)8月に斯波氏経の後任として九州探題に任じられ、その翌月に備中守護、貞治5:正平21年(1366)1月には備後守護にも任じられている。
この義行の備中・備後守護への補任は、九州に赴いてから現地の幕府方勢力を編成して南朝軍に対抗しようとした斯波氏経の挫折を踏まえて、備中・備後国の軍勢からなる直轄軍を編成して九州に乗り込ませようとする幕府の方策であったとみられるが、守護領国の国人領主らの反発にあって思うように軍勢の徴発や出征の準備ができず、山陽道に留まり続けて九州への入部を果たせなかった。
また、義行の探題就任の推挙者であった管領・斯波義将が貞治6:正平22年(1367)にその地位から退いたこともあって応安3:建徳元年(1370)に探題職を罷免され、今川了俊(貞世)への交代を余儀なくされた。
永和元:天授元年(1375)8月11日死去。享年28。