室町幕府第2代将軍。在職期間は延文3:正平13年(1358)〜貞治6:正平22年(1367)。
元徳2年(1330)6月18日に生まれる。父は足利尊氏、母は北条(赤橋)久時の娘・登子。幼名は千寿王丸。2人の庶兄があったが、正室の子として嫡子となる。妻は渋川義季の女・幸子。
康永元:興国3年(1342)に正五位下・左馬頭、観応元:正平5年(1350)に参議・左近中将。貞治元:正平17年(1362)に権大納言に特進。鎌倉大納言と称され、京都三条坊門第に住んだため坊門殿とも呼ばれた。
正慶2:元弘3年(1333)3月、隠岐を脱出した後醍醐天皇の軍を討つことを命じられた父・尊氏が鎌倉を発向する際、母と共に人質として鎌倉に留められた。その後の4月29日に尊氏が後醍醐天皇の綸旨に応じて丹波国で討幕の兵を挙げると、5月2日の夜には家臣に守られて鎌倉大蔵谷の居宅を脱出し、5月8日に新田義貞が挙兵するとその翌日には家臣に連れられてこれに参じて鎌倉に向けて進撃、5月22日に北条高時らを討って鎌倉幕府を滅亡させた(鎌倉の戦い)。この鎌倉攻撃の功労者は新田義貞であったが、これに参集した武士の多くは足利氏の威光を慕って参じたともいう。このため新田氏との不協和音が生じることになるが、間もなく義貞らが鎌倉から引き上げたこと、12月に叔父・足利直義が成良親王を奉じて鎌倉に着任したことによって、東国での足利氏の優位が固められた。
建武2年(1335)4月、従五位下に叙位。
同年7月、信濃国で挙兵した北条時行によって鎌倉を逐われるが(中先代の乱)、翌月に軍勢を率いて下向した尊氏が北条勢を駆逐すると鎌倉に帰還した。また同年の11月から12月にかけては、後醍醐天皇に叛いて京都に進撃した尊氏を追撃する北畠顕家の軍勢によって鎌倉を逐われているが(北畠顕家の征西)、北畠軍が畿内を目指したため、再び鎌倉に復帰している。この後、失脚した直義に代わって幕政を担うため上洛することとなる貞和5:正平4年(1349)10月まで主に鎌倉に留まっており、この間の康永元:興国3年12月1日に鎌倉で元服して義詮と名乗る。
観応元:正平5年10月末、尊氏が足利直冬討伐のため九州に向けて出陣した際には京都に残って留守を守ったが、この間に蜂起した直義・南朝の連合軍によって京都を逐われる。翌観応2:正平6年(1351)2月末に尊氏と直義の和睦が成ると京都に戻り、直義と共同で政務にあたったが、7月には再び不和となる。不穏な空気を察した直義が8月に出奔すると尊氏はこれを追撃するため南朝に帰順して11月に出陣したが、義詮は京都に在って政務を執った。
しかし直義死没直後の観応3(=文和元):正平7年(1352)閏2月、「合体は暫時の智謀」であったとして京都・関東で同時に兵を挙げた南朝軍に敗れて近江国に逃れるが、即座に反撃して3月15日には京都を回復している。同年8月には光厳上皇の皇子・弥仁親王を後光厳天皇として即位させ、北朝を再興しているが、このときは光厳・光明・崇光の三上皇と廃太子の直仁親王が大和国賀名生に連れ去られていたため、神器・上皇不在のままで光厳上皇の生母である広義門院の代行による異例の形式での即位であった。
翌文和2:正平8年(1353)6月にも旧直義党と南朝軍の侵攻を受けるが、このときは後光厳天皇を奉じて近江さらには美濃国へと逃れて反撃態勢を調え、7月には京都を奪回している。また、同年9月には後光厳天皇を奉じた尊氏も帰洛している。
文和4:正平10年(1355)1月にも南朝軍、そして今度は南朝に帰順した足利直冬(義詮の異母兄)や山名時氏をも加えた軍勢によって京都を窺われるが、先だってこの動きを察知していた義詮は前年の10月に播磨国に、尊氏は後光厳天皇を奉じて近江国に逃れている。これは入京した南朝・直冬軍を東西から挟撃するための戦略であったとされ、実際に文和4:正平10年2月から義詮・尊氏は軍勢を返して京都に進撃、3月には南朝軍を退けている。
延文3:正平13年4月に尊氏が死去したのちの12月8日、将軍宣下を受けて第2代の征夷大将軍となり、細川清氏を執事に任じた。
この翌年頃より鎌倉に在った弟・足利基氏との不仲が取沙汰されるようになり、その疑いを払拭するため基氏配下の関東執事・畠山国清が南朝討伐軍を率いて上洛。義詮は同年暮れにこの関東勢をも併せて河内国に出陣、延文5:正平15年(1360)5月に南朝方楠木正儀の拠る赤坂城を落とすなどの戦果を挙げたが、7月頃に畠山国清・細川清氏・京極高氏(佐々木導誉)らと仁木義長との間で反目が生じると国清は鎌倉へ帰り、義長は南朝に奔る。また康安元:正平16年(1361)8月、今度は細川清氏と京極高氏の確執が表面化し、高氏の言を容れた義詮が清氏の追討を命じたため清氏も南朝に帰順。こうした相次ぐ有力者の離脱によって弱体化は免れえず、これを見た南朝軍によって12月に侵攻を受けると後光厳天皇を奉じて再び近江国に下るが、間もなく京都を回復する。これにより南朝方の最後の京都占領は終わった。翌康安2(=貞治元):正平17年7月には細川清氏が討死し、帰国後に反抗の姿勢を示していた畠山国清も9月に基氏に降り、内訌も一時の小康を得る。
またこの年には斯波高経・義将父子を起用して補佐を受け、貞治2:正平18年(1363)の春には周防・長門国を領していた大内弘世が、9月には山陰地方の大半を掌握していた山名時氏も幕府に帰順し、幕政は安定に向かう。
貞治6:正平22年9月頃より病に罹り、12月7日に没した。享年38。法名は宝篋院道権瑞山。この直前には家督を幼少の嫡男・義満に譲り、その補佐役の執事に細川頼之を任じている。
和歌をよくし、『宝篋院殿御百目』や『新続古今和歌集』などの勅撰集に収められたものも少なくない。