北畠顕家の征西

正慶2:元弘3年(1333)5月、後醍醐天皇の主導によって鎌倉幕府が倒されて建武政権が樹立された。8月には16歳の青年公卿・北畠顕家が陸奥守に抜擢され、10月には陸奥国の統治にあたるため、父・北畠親房とともに後醍醐天皇の皇子・義良親王(のちの後村上天皇)を奉じて出立、11月8日に陸奥国府の多賀城へ赴任した。
しかし建武2年(1335)、関東で鎌倉幕府執権・北条高時の遺児である北条時行が蜂起(中先代の乱)すると足利尊氏がその鎮定に向かうが、その鎮定後も尊氏は帰京命令を無視して鎌倉に駐留し、10月15日には鎌倉若宮小路の旧幕府将軍邸跡に新邸を建てて征夷大将軍を自称し、建武政権より離脱する意向を示したのである。
この尊氏を追討するため、11月19日には京から新田義貞率いる軍勢が差し向けられ、陸奥国の顕家にも尊氏討伐を命じる綸旨が下されている。尊氏はこの新田軍を12月12日の箱根・竹ノ下の合戦で破り、敗走する新田軍を追って京へ向けて進撃を開始する。顕家はその尊氏軍を追撃するため、同年12月より出陣したのであった。

建武3年(1336)1月はじめ、尊氏勢は京都に迫る。これに呼応して西からは播磨国の赤松範資、四国からは細川定禅らも動き、この劣勢を見た後醍醐天皇は10日に比叡山へと逃れ、翌日には尊氏が京都を占拠した。しかしその直後の13日には5万ともいわれる北畠顕家率いる奥州軍が比叡山麓の東坂本に到着し、京都を窺う。
同月16日の近江国園城寺の攻防戦を皮切りに、鴨川畔で両陣営は激突し、28日には奥州軍が新田義貞・楠木正成らと連携して尊氏勢を打ち破って丹波国篠村に逐い、2月12日には兵庫に逃れていた尊氏を九州へと奔らせた(建武3年の京都攻防戦)。尊氏を京都から逐うことに成功した顕家らは後醍醐天皇を比叡山から京都に迎え、3月下旬には帰国の途につく。

しかし顕家不在の間に陸奥国では足利勢力が強まっていた。
尊氏は建武政権からの離脱を明確にする以前の建武2年8月末頃には斯波家長を奥州総大将に任じ、この家長が顕家出立後の多賀国府を攻略している。家長は多賀国府には従兄弟の斯波竹鶴丸(のちの斯波兼頼)やその代官・氏家道誠を入れて奥州の固めとし、自らは同年冬頃に鎌倉に入って尊氏の嫡子・足利義詮を補佐しつつ関東から陸奥にかけての支配体制の強化に勤しんでいたのである。
奥州へ向かう顕家は、4月16日に相模国の江ノ島付近の片瀬川で斯波勢による迎撃を受けたがこれを打ち破り、続いて鎌倉にも攻め入って義詮や家長を三浦半島に逐い、5月24日には相馬氏の拠城である陸奥国小高城をも落とし、その翌日には多賀国府を回復したのである。