建武3年の京都攻防戦

建武2年(1335)12月の箱根・竹ノ下の合戦で勝利した足利尊氏は、敗走する新田義貞軍を追って西へと向かう。
新田軍が撃退されたことを知った後醍醐天皇は陸奥国の北畠顕家に尊氏追討を命じ、また、義貞に従軍していた比叡山の僧・宥覚(祐覚)は、尊氏の入京を近江国で阻止すべく琵琶湖東岸の伊岐代(いきしろ)に城を構えて立て籠もったが、翌建武3年(1336)1月2日に足利軍の将・高師直が1日で攻め落とし、京都への道を切り開いたのであった。

京都を目前に控えた足利軍は軍勢を分けて進撃することとし、その陣立てとして、『梅松論』では瀬田からは尊氏の弟・足利直義高師泰を付し、淀には畠山高国、芋洗は吉見頼隆、そして尊氏自身は宇治から攻めるという、京都を東と南から攻撃する作戦だったとし、宮方(後醍醐天皇方)の瀬田の大将は千種忠顕・結城親光・名和長年、宇治方面は新田義貞としているが、『太平記』では宇治を楠木正成が守備し、大渡を新田義貞、山崎を義貞の弟・脇屋義助が固めたとしている。
いずれにしても各防衛線ともに守りは堅く、1月8日には大渡で尊氏と義貞の直接対決となったようだが、新田勢がこれを凌ぐなど、未だ足利軍は防衛線を破れずにいた。しかし赤松則村(円心)細川定禅ら中国・四国からの援軍が京の西の山崎に到着し、この赤松・細川の軍勢が10日に山崎を突破して久我・鳥羽方面に攻め入ると大勢は決したのである。
後醍醐天皇は比叡山に逃れ、各防衛線の守将もこれに従って京都を脱し、足利軍は11日に京都入りを果たしたのであった。

しかし、後醍醐天皇の要請を受けて前年の12月22日に陸奥国を発向していた北畠顕家・義良親王の軍勢が1月13日に比叡山東の近江国坂本へ到着したことで戦況は一転する。奥州勢の到着で気勢の上がった宮方軍は、比叡山衆徒等の兵力をも加え、足利方で延暦寺と対立していた三井寺(園城寺)への攻撃を皮切りとして反撃を開始したのである。
この三井寺の戦いには援軍として細川勢が派遣されたが、三井寺は陥落。宮方軍は勢いに乗じて戦線を押し返すべく京都に向けて進み、賀茂川(鴨川)を防衛線とする足利軍と対決、1月末の三条河原(糺河原)の合戦で足利軍を撃退したのである。
この敗北で劣勢が明らかとなった尊氏は、3年前の正慶2:元弘3年(1333)4月29日に討幕の旗幟を鮮明にした地である丹波国篠村へと撤退し、尊氏と入れ替わるように後醍醐天皇が帰京した。
ついで足利軍は摂津国兵庫へと至ってここから京都奪還を試みるも、京都からも追討軍が差し下され、2月10日には打出浜で楠木正成に、翌11日には豊島河原で新田義貞の軍勢に敗れて兵庫に押し戻され、ついには12日より九州へと向かうことになる。
しかし尊氏はこの途次に、「朝敵」の汚名を雪ぐために光厳上皇より院宣を得て錦の御旗を立てる(上皇の軍勢となる)べきだとする赤松則村の進言を容れて政治工作を行っており、早くも備後国の鞆でその院宣を得て上皇軍としての地位を確立し、再起への布石としたのであった。