高師泰(こう・もろやす) ?〜1351

足利家臣。高師重(師継・道忍)の子。高師直の兄弟(兄か)。四郎刑部丞・左衛門尉・尾張守・越後守。越後・尾張・和泉・河内などの守護。侍所頭人。
兄弟の師直とともに正慶2:元弘3年(1333)4月の足利尊氏の挙兵に従軍し、建武政権樹立後の同年9月には南海・西海両道の訴訟を扱う雑訴決断所四番方の奉行に登用され、また尾張権守にも任じられた。
建武2年(1335)に中先代の乱が勃発すると尊氏の関東下向に従い、その鎮定後も関東に留まり続けた尊氏を討つために新田義貞の軍勢が差し下されると、これを迎撃するため大将として三河国矢作川に出陣して敗れたが、続く箱根・竹ノ下の合戦に勝利し、敗走する義貞を追って京都に進撃した際には足利直義の軍勢に属して副将を務めた(建武3年の京都攻防戦)。また、この年の秋には侍所頭人としての活動が見えている。
建武3(1336)2月に尊氏の九州没落にも従い、3月の筑前国多々良浜の合戦では先陣を務め、その後の京都への再進撃には陸路を進む直義軍の副将に任じられ、同年5月の湊川の合戦やその後の京都制圧戦で活躍するなど軍事面で貢献し、足利氏執事として仕えていた師直とともに同年11月の足利(室町)幕府成立に大きく寄与した。
この10月に新田義貞が越前国金ヶ崎城に拠ると、越前守護・斯波高経を支援するため翌建武4:延元2年(1337)1月に出陣、3月にはこれを落として尊良親王と義貞の子・新田義顕を自害させた。また、建武5年(1338)には陸奥国から2度目の上洛に臨む北畠顕家の軍勢に備えて美濃国に出陣してこれを阻み、顕家が決戦を避けて進路を伊勢国へと転じたため、これを追撃して雲出川や櫛田川で戦った。この後の畿内での抗争に出陣したかは不明である。
この後の暦応2:延元4年(1339)から翌年にかけては、遠江守護・仁木義長を支援して南朝勢力を駆逐するため、遠江国で軍事行動を展開している。
貞和3:正平2年(1347)9月、南朝の楠木正行が河内国で河内・和泉守護の細川顕氏の軍を破ると(藤井寺合戦)、師泰はこの両国の守護に任じられて師直とともに出陣、翌年1月の四条畷の合戦ののちには河内国石川河原に進出し、楠木氏の本拠である千早・赤坂城を牽制した。このとき、石川城付近にある聖徳太子廟を焼き払っている。
師直と足利直義の対立が表面化し、それぞれの派閥である「高党」と「直義党」がしだいに形成されていくと高党の中心人物となり、貞和5:正平4年(1349)閏6月に師直が執事職を更迭されると、8月には駐屯していた河内国から軍勢を率いて京都に駆けつけ、13日の直義邸包囲、翌14日には直義が逃れた尊氏邸の包囲に参加し、師直の復権に尽力している。
翌観応元:正平5年(1350)6月、直義の養子で九州に逃れていた足利直冬やその与党を討伐するために中国地方へと出陣するが、石見国の侵攻に手間取り、その間に直義が南朝と和睦して挙兵すると、この報を聞いて播磨国へと軍勢を転じて尊氏・師直との合流を果たすが、翌観応2:正平6年(1351)2月の摂津国打出浜の合戦で直義勢に敗れ、このときの講和条件で師直と同様に出家を余儀なくされて道昭(あるいは道勝)と号した。
しかし帰京途次の2月26日、かつて師直の命で殺害された上杉重能の養子・上杉能憲の軍勢に摂津国武庫川で襲撃され、子・師世や師直以下の一族とともに討たれた。