上杉能憲(うえすぎ・よしのり) 1333〜1378

関東管領・山内上杉憲顕の子。通称は三郎。左衛門尉・兵部少輔。
叔父にあたる詫間上杉重能の養子となる。兄弟(憲顕の子)の中でこの能憲のみが「憲」の字が名前の下の字に使われており、養子先における命名と思われる。
貞和5:正平4年(1349)12月に養父の重能が足利尊氏の執事・高師直のために殺されたのちは実父の憲顕を頼り、翌観応元:正平5年(1350)10月に畿内で足利直義が反尊氏・師直の兵を挙げると(観応の擾乱)、南朝勢力や憲顕とともにこれに呼応して尊氏・師直の勢力と戦い、観応2:正平6年(1351)1月には甲斐国の須沢城に高師冬を攻めて滅ぼした。
ついで兵を率いて上洛し、同年2月26日、打出浜の合戦に敗戦して京都に向かう師直以下の高一族を摂津国武庫川で討ち取り、養父・重能の仇を討った。このため、のちに尊氏によって流罪に処せられたが、やがて赦された。
観応3(=文和元):正平7年(1352)閏2月に関東で新田氏ら南朝勢力が蜂起すると、これに呼応して信濃国で諏訪氏らとともに宗良親王を奉じて挙兵したが敗れた(武蔵野合戦)。
この後は憲顕とともに越後国に逼塞していたと思われるが、貞治2:正平18年(1363)3月に至って憲顕が鎌倉公方・足利基氏より関東管領として召還されたのちは鎌倉府に属し、応安元:正平23年(1368)7月には越後・上野国境で蜂起した新田義宗・脇屋義治らを鎮圧している。
同年9月の憲顕の死後は従兄弟の犬懸上杉朝房とともに関東管領に任じられて鎌倉公方の足利氏満(足利基氏の子)を補佐し、「両上杉」と称された。同時に武蔵・上野国の守護職も継承し、翌応安2:正平24年(1369)10月には伊豆守護にも補任されている。
応安3:建徳元年(1370)、上杉朝房が職を辞したことで能憲が単独の関東管領となるが、のちに上洛して幕府に出仕することとなった朝房との連携は続いていたようである。
応安4:建徳2年(1371)に鎌倉の西御門に報恩寺を建立し、足利基氏と親交の深かった義堂周信を住持に招いた。
永和2:天授2年(1376)3月下旬頃には病に罹り、5月には死を覚悟してのことか、関東管領職の辞任を願い出たが、慰留を受けて復職。しかし、所領と家督は同年5月に弟の上杉憲方に譲り、永和3:天授3年(1377)4月には弟の上杉憲春が関東管領としての職務を執っている。
永和4:天授4年(1378)4月17日に没した。享年46。その遺体は、柔和で美しく生けるが如くであったという。