上杉朝房(うえすぎ・ともふさ) ?〜1391?

犬懸上杉憲藤の子。幼名は幸松丸。左馬助・中務少輔・弾正少弼。関東管領。
父・憲藤が暦応元:延元3年(1338)3月に摂津国で北畠顕家の軍勢と戦って討死したときはまだ幼少であったため、弟の朝宗とともに家臣・石川入道覚道に養育された。
貞治3:正平19年(1364)12月に上総守護、ついで貞治5:正平21年(1366)10月には信濃守護に補任される。
応安元:正平23年(1368)2月、武蔵国で河越直重ら平一揆が鎌倉府からの自立を企てて蜂起すると、同年6月より関東管領・山内上杉憲顕とともに鎌倉公方・足利氏満を奉じて平一揆討伐に出陣(武蔵国平一揆の乱)。これを鎮圧したのちの9月に上杉憲顕が没したのちは、憲顕の子・山内上杉能憲とともに関東管領職を継承して足利氏満を補佐し、「両管領」と称された。
応安3:建徳元年(1370)に関東管領職を辞し、のちに上洛して幕府に出仕し、明徳2:元中8年(1391)に京都の四条で没したと伝わる。法名は常真徳元。