上杉憲顕(うえすぎ・のりあき) 1306~1368

上杉憲房の子。三男か。山内上杉氏の祖。上野・相模・越後守護。第2代関東管領。就任期間は暦応3:興国元年(1340)~観応2:正平6年(1351)、貞治2:正平18年(1363)から死没の応安元:正平23年(1368)。民部大輔・越後守・安房守。
叔母・清子は足利貞氏の妻であり、貞氏の子である足利尊氏直義とは従兄弟にあたる。
建武元年(1334)に建武政権下で関東廂番の二番頭人となる。翌年11月、尊氏が後醍醐天皇に叛くとそれに従い、直義に属して駿河国手越河原に戦い、また尊氏がいったん九州に逃れたときにはこれを支援するため石見国に赴いた。
建武3年(1336)1月、父・憲房が京都で討死したのち上杉氏の家督を継ぎ、上野守護に任じられた。その後、上野・下野・越後国などの各地を転戦するなどして関東の統治にあたり、暦応3:興国元年(1340)、高師冬とともに鎌倉府の執事(のちの関東管領)に任じられて足利義詮、ついで義詮と交代して鎌倉に下向してきたその弟・足利基氏を補佐した。また、翌暦応4:興国2年(1341)12月には上杉氏で初めて越後守護に任じられている。
観応元:正平5年(1350)に尊氏・直義兄弟の対立が激化して観応の擾乱が起こると関東でも尊氏党と直義党に分裂したが、憲顕は子の能憲らとともに直義党に属し、同年12月に尊氏党に属した師冬が基氏を擁して相模国毛利荘湯山に陣すると、これを攻めて基氏を奪い、翌観応2:正平6年1月には甲斐国須沢城に師冬を攻めて自害させた。
同年8月に京都を出奔した直義を鎌倉に迎え入れ、尊氏に敵対したため同年12月に上野・越後の守護職を没収された。同月末、直義が駿河国の薩埵山に布陣した尊氏軍を攻めるに際しては大手(正面)軍の大将に任じられている。しかしこの合戦に敗れて信濃国方面へ敗走した。
降った直義が観応3(=文和元):正平7年(1352)2月に鎌倉で毒殺されて観応の擾乱が終結したのちも直義党の立場を崩さず、新田義興義宗に呼応して武蔵野合戦と総称される新田勢と幕府軍の抗争に参戦したが、敗れて守護領国であった越後国に逃れたのち、剃髪して道昌と号す。
隠棲すること10年の後の貞治2:正平18年(1363)3月、基氏より関東管領職への復帰を要請され、これを受ける。憲顕は武蔵野合戦において新田勢に与していたが、敵対したのはあくまで尊氏であったこと、またかつて鎌倉を治めていた直義や義詮からも深い信任を得ていたことなどからのものであろう。この前年には将軍の義詮から越後守護に再任されており、関東管領職再任に関しても義詮の意向が働いていたことが窺われる。同年中には上野守護にも復帰し、応安元:正平23年(1368)には武蔵守護にも任じられている。
貞治6:正平22年(1367)4月に基氏が没したのちはその嫡男で鎌倉公方の地位を継承した氏満を補佐し、同年12月に義詮が没してその子・義満が擁立されるにあたっては翌年1月、氏満の名代としてその祝賀に列するために上洛した。しかしその間に関東では河越氏を中心とする平一揆が蜂起したため4月に関東に戻り、6月に上杉朝房とともに足利氏満を奉じて出陣して平一揆を屈服させ、さらには下野国に進撃し、平一揆に同調していた宇都宮氏綱を攻めて9月に降したが(武蔵国平一揆の乱)、その直後の9月19日、在陣していた下野国足利で没した。享年63。法名は国清寺桂山道昌。
この間の7月には子・能憲らの軍勢を派遣して越後・上野国で新田義宗・義治らを討っており、関東の静謐を見届けての往生であった。