宇都宮氏綱(うつのみや・うじつな) 1326~1370

宇都宮公綱の子。母は千葉宗胤の女。幼吊は加賀寿丸か。妻は斯波高経の娘。従五位下・下野守。上野・越後守護。
諱の「氏《の字は、足利尊氏よりの拝領とされる。
北畠顕家が任地の陸奥国から上洛(北畠顕家の征西:その2)する途次の建武4:延元2年(1337)12月、利根川の合戦で尊氏の子・足利義詮の軍勢を攻撃したとき、父・公綱は北畠勢に属していたが、氏綱は宇都宮氏重臣の芳賀高吊(禅可)に擁立されて義詮方に加わった。このときは籠城した下野国宇都宮城を攻められて降伏しているが、以後も足利尊氏方に属し、観応2:正平6年(1351)12月の薩埵山の合戦にも尊氏方として参陣している。
この間の貞和5:正平4年(1349)8月、北朝の臨時除目において、天龍寺造営の功で下野守に補任されている。
文和元:正平7年(1352)、上野・越後守護に補任。しかし上杉憲顕が貞治元:正平17年(1362)に越後守護、翌年には上野守護に復帰したことによって氏綱が両国の守護職を罷免されると、これに憤慨した芳賀高吊が上杉氏に対して挙兵に及んだが、同年8月にはこの抗争に介入した関東公方・足利基氏に芳賀勢が追伐され(苦林野の合戦)、続いて基氏が宇都宮城を攻めるために小山氏の居館に入ったことを知ると、今回のことは高吊の独断でのことと詫びて赦免された。
基氏の死後の応安元:正平23年(1368)2月、鎌倉府からの自立を企てた河越直重・高坂氏重ら平一揆に呼応して蜂起したが、足利氏満を奉じた上杉軍によって宇都宮城を攻められ、9月に降伏した(武蔵国平一揆の乱)。
応安3:正平25年(=建徳元年:1370)7月5日に没した。享年45。