建武2年(1335)、陸奥国に在った北畠顕家は後醍醐天皇に叛いて鎌倉から京都に向けて進撃した足利尊氏を追撃し、これを駆逐したのちの建武3年(1336)3月下旬頃、再び陸奥国へと赴いた(北畠顕家の征西)。
しかし尊氏は光厳上皇からの院宣を得たことで朝敵の汚名を返上するとともに九州で勢力を立て直し、同年5月の摂津国湊川の合戦で勝利して光厳上皇らを伴って入京、8月には光厳上皇の弟・豊仁親王が即位して光明天皇となり、11月には後醍醐天皇が光明天皇に神器を授与したことで和睦が成ったが、12月21日に至って後醍醐天皇が大和国吉野に脱出して正統な天皇であることを主張したことによって皇家は分裂し、光厳上皇・光明天皇方が北朝、後醍醐天皇方が南朝と称されるようになる。
一方で東国においては、顕家不在の間に曽我・安東・石河・留守・武石・相馬といった諸氏が足利方(北朝方)に寝返っていたために顕家の帰国は難航し、陸奥国府の多賀城に入ることができたのは5月下旬のことであった。帰国したのちも戦況は芳しくなく、国府からの退去を余儀なくされ、建武4:延元2年(1337)1月には拠点を伊達郡の霊山(りょうぜん)城まで下げざるを得ないという状況に置かれていたのである。
そんな状況の中、後醍醐天皇からの「速やかに軍勢を率いて京都に発向せよ」との勅書が顕家のもとに届けられたのは1月25日のことであった。
建武4:延元2年(1337)8月19日、北畠顕家は白川(結城)宗広・伊達行朝・南部師行ら3万余と称される軍勢を率いて白河の関を発ち、10月はじめには下野国の小山城を下し、12月半ばの利根川の渡河戦において上杉憲顕・細川和氏・高重成ら8万ともいわれる足利尊氏軍を破って武蔵国府中に入った。このときに宇都宮公綱・新田義興・北条時行も顕家勢に参陣している。同月23日には鎌倉に討ち入って杉本観音寺城で斯波家長を自害させ、足利義詮を三浦半島に敗走させて鎌倉を制圧した。
暫し休息したのちの翌延元3年(1338)1月2日に鎌倉を発った顕家勢は京都を目指し、22日に尾張国黒田宿を経て24日には美濃国の阿志賀川を渡っている。この直後の28日に美濃国青野原(のちの関ヶ原)で北畠軍を追撃してきた北朝勢と激しく戦った(青野原の合戦)。この合戦の勝敗は史書によって見解が異なっており、いずれにしても激戦であったことが窺える。
この合戦ののちに北畠軍は軍勢を転じ、近江国方面を避けて伊勢国方面へと迂回した。これは、新田義貞と合流して京都を奪回しても義貞の功となるのを避けたとか、属将の北条時行が義貞と同陣するのを嫌ったためとする説などがあるが、青野原の合戦での兵力の損耗が大きかったために敵地である近江国の突破を避け、未だ南朝勢力が残る伊勢・伊賀国方面から京都へ向かったというのが真相であろうと見られている。
その後は伊勢国の雲出(くもず)川や櫛田川での戦闘を経て大和国に入り、28日には奈良の般若坂で桃井直常・直信兄弟勢と戦うが敗れ、顕家勢は散り散りになって敗走した。
顕家は河内国に逃れたようだが間もなく再挙し、3月には弟の顕信と連携して天王寺や八幡へ進出した。しかし16日には迎撃に出陣した高師直らと安倍野で戦って敗れ、その後も抗戦を続けたが、5月22日の和泉国石津(堺浦)の合戦で高師直の軍勢に敗れて討死を遂げた。
顕家は南朝退勢の時流の中にあって京都奪回のために奮戦したが、ついにそれは果たせなかったのである。