南部師行(なんぶ・もろゆき) ?〜1338

南部政行の二男。母は南部(波木井)実継の娘。通称は又次郎。南部政長の兄。八戸南部氏の祖。
正慶2:元弘3年(1333)5月、後醍醐天皇から発せられた討幕の綸旨に応じて兄の時長や弟の政長とともに新田義貞に属し、鎌倉攻めに従った(鎌倉の戦い)。その後、討幕の功をめぐって足利氏と不仲になった義貞が上京するのにも従っている。
同年10月に北畠顕家が建武政権の陸奥守として陸奥国に赴任するに際し、師行も政長とともに下向して同国糠部郡の目代(検断奉行)に任ぜられ、八戸郷に根城を構えて拠城とした。
主な職務としては所領の打渡しや巡察など治安維持に係るものであり、鎌倉幕府の滅亡後に津軽に逃れてきていた北条一門の名越時如と安達高景が元弘3年の冬から大光寺城、ついで持寄城に拠って北条氏再興の反乱を起こすと、顕家の命を受けて土着勢力の安東氏の協力を取り付けるなどして、反乱の鎮圧に寄与している。
これらの活動から顕家の信任を得るところとなり、建武2年(1335)冬に顕家が建武政権から離脱した足利尊氏の討伐に出征(北畠顕家の征西)するに際しては、陸奥の国府である多賀城の防備を命じられている。
建武3:延元元年(1336)に皇家が北朝(光明天皇・足利尊氏方)と南朝(後醍醐天皇・北畠顕家方)に分裂すると南朝方に属し、建武4:延元2年(1337)8月、後醍醐天皇から上洛の要請を受けた北畠顕家の軍勢に参じて出征した(北畠顕家の征西:その2)。
しかし暦応元:延元3年(1338)5月22日、和泉国堺浦の石津浜で尊氏方の高師直の軍勢に敗れ、顕家とともに戦死した。