伊達行朝(だて・ゆきとも) 1291〜1348

陸奥国伊達氏第7代。伊達基宗の子。のちに行宗と称す。蔵人・左近将監・宮内大輔。追号は念海。
正慶2:元弘3年(1333)に鎌倉幕府が滅亡して建武政権が樹立すると陸奥国の多賀国府に出仕し、同年冬に陸奥国に入部した北畠親房顕家父子の構想によって設立された、いわゆる「奥州小幕府」体制の中で白川宗広親朝父子らと共に式評定衆・引付頭人に任じられている。
建武2年(1335)の中先代の乱後に足利尊氏が建武政権から離脱する姿勢を示し、これに応じた下総国結城氏一族の結城盛広や宗広の弟・白川祐義らが陸奥国高野郡長倉城に挙兵すると、顕家の命を受けて出陣して8月15日には盛広らを破り、その恩賞として高野郡北方荘を与えられている。また、京都に向けて進撃した尊氏を追撃する顕家の軍勢に従軍した(北畠顕家の征西)。
尊氏を九州に奔らせたのちに帰国すると陸奥国では北朝勢に圧されて南朝勢が退勢となっていたが、伊達郡の霊山城に義良親王や北畠顕家らを迎え、建武4:延元2年(1337)1月から8月までに亘って霊山城を守備した。
この直後の顕家の2度目の征西戦に従軍し、顕家戦死後の暦応元:延元3年(1338)9月、義良親王・宗良親王、北畠親房・顕信父子、新田義興北条時行らと共に海路から東国を目指して伊勢国を出帆したが、暴風雨に遭遇して常陸国に漂着。以後は伊佐城を根拠として北畠親房を助けて転戦し、奥州南朝勢の中心として活躍した。しかし、北朝方では石塔義房を奥州総大将として陸奥国に、高師冬を関東に派遣して南朝勢力の掃討を図っており、勢いはあまり揮わなかった。
暦応3:興国元年(1340)に北畠顕信が吉野から常陸国を経て陸奥国に入った際、行朝はこれに従って帰国したとみられるが、康永元:興国3年(1342)10月の陸奥国栗原郡三迫の合戦で南朝軍が敗れ、その翌年に長らく形勢を観望していた白川親朝が北朝に投降すると奥州の南朝勢は大きな打撃を受け、行朝も同じ頃に北朝に帰属したとみられる。
貞和4:正平3年(1348)5月9日に死去。享年58。
歌人としても名を知られ、多くの歌集に作品を残している。