白川親朝(しらかわ・ちかとも) ?〜1347?

結城一族。白河結城氏・白川(結城)宗広の嫡男。通称は七郎。初名は親広。大蔵大輔・修理権大夫。
鎌倉時代の末期には陸奥国田舎郡河辺桜葉郷の代官を勤めており、津軽安藤氏の安藤季長と安藤宗季が分裂抗争に及んだ際、その鎮定のため嘉暦元年(1326)に幕命を受けて出陣している。
正慶2:元弘3年(1333)、後醍醐天皇の勅を受けて討幕に臨んだ父・宗広や弟の親光を陸奥国白河にいて支援し、鎌倉幕府の滅亡後に樹立された建武政府が陸奥国に北畠顕家を派遣して奥州将軍府を設置すると、父や伊達行朝らと共に式評定衆・引付頭人の要職に任じられるなど、重用された。
建武2年(1335)、足利尊氏が建武政権に背いて離脱する意思を明らかにすると、結城一族の中でも下野国結城氏の結城盛広らが尊氏に与して高野郡で挙兵に及ぶと、親朝は顕家の制止も聞かずに多賀国府から白川城に帰っている。これは国府要職の地位よりも自領の防衛を優先した行動と思われ、その慰撫のためか同年10月26日付で顕家より白河・高野・岩瀬・安積郡・石川・田村荘・依上保・小野保などの検断奉行に任じられている。
同年末、京都に進撃した尊氏を追討するために宗広と共に北畠顕家に従って出陣、明けて建武3年(1336)1月の京都攻防戦においては尊氏に与した同族の結城朝祐らとも戦うことになったが、尊氏勢を京都から駆逐し、3月に帰国する際には義良親王の令旨で下野守護に補任された。
翌建武4:延元2年(1337)8月、父の宗広は後醍醐天皇からの綸旨を受けて北畠顕家と共に再征の途につくが、親朝は白河に残り、顕家の子(娘)を身ごもった女性を預かっていたという。
建武5(=暦応元):延元3年(1338)5月の顕家討死、続く宗広病死ののちは南奥州における南朝勢力の中心となることを期待されたが、北畠親房からの数十通にも及ぶ協力要請の書状を黙殺して形勢観望に転じ、康永2:興国4年(1343)4月頃に足利尊氏(北朝)に降る内意を示し、同年9月には一族同心の者の交名目録注進状を尊氏に奉呈している。
年次不詳であるが建武3年以降に分家として小峰家を興し、康永2:興国4年11月に二男・朝常に小峰家を譲った。
貞和3:正平2年(1347)頃に死去したとみられる。