北畠親房(きたばたけ・ちかふさ) 1293〜1354

公卿・北畠師重の子。後醍醐天皇の寵臣である『後の三房』のひとり。永仁元年(1293)1月に生まれ、同年6月に従五位下、延慶元年(1308)11月に従三位となる。同年12月、参議。正和5年(1316)1月、正二位。元応2年(1320)10月、淳和院別当。元亨3年(1323)5月、奨学院別当。
後醍醐天皇に重用され、正中2年(1325)には曽祖父以来の極官を越えて大納言に任官。
元徳2年(1330)9月、後醍醐天皇から養育を任せられていた第二皇子・世良親王の死去に際して出家して宗玄、のちには覚空と号す。
こののち、正慶2:元弘3年(1333)5月に後醍醐天皇が帰京するまで世俗から離れて学問に励んでいたが、同年6月に建武政権が発足すると再び後醍醐天皇に出仕して従一位に叙され、大臣に准ぜられる。
同年10月、陸奥守に任じられた嫡男・北畠顕家とともに義良親王を奉じて、陸奥国府の多賀城に下向。顕家はまだ16歳であったため、実際の指揮は親房が執ったものと思われる。この下向は義良親王を将軍、北畠氏を執権に見立てて、陸奥国の地方武士を統轄する小幕府を構築する意図があったと目されている。
建武2年(1335)12月、中先代の乱を鎮圧したのち鎌倉に拠って建武政権に叛いた足利尊氏の討伐を命じられた顕家に同道したと見られ、尊氏を九州に奔らせたのちの建武3年(1336)3月に顕家は帰国の途についているが、親房は病のために京都に残っている。
しかしその後に九州で態勢を立て直した尊氏が京都を奪回するに際して二男・顕信らとともに伊勢国に逃れて度会郡玉丸(田丸)城に拠り、同年12月に大和国吉野に移って南朝を興した後醍醐天皇と連絡を取りながら南朝の拠点構築に努める。この伊勢国下着の背後には皇大神宮神官・度会家行らの支援があり、またこの期間に度会家行の『累聚神祇本源』などの神道書を書写し、神道説への造詣を深め、それはのちに『元元集』の著作となって結実した。
だが暦応元:延元3年(1338)5月の顕家、同年閏7月の新田義貞の戦死によって南朝の軍事的劣勢が明らかになると、親房は東国の南朝勢力回復の使命を帯びて、義良親王・宗良親王を奉じて顕信や白川(結城)宗広伊達行朝新田義興北条時行らとともに9月初旬に伊勢国大湊から出帆した。しかし遠州灘を過ぎた辺りで暴風雨に遭って離散、親房と行朝は常陸国に上陸することができた。
常陸国に入った親房は小田治久や関宗祐に迎えられて東条氏の居城である神宮寺城に入ったが、間もなく北朝軍の攻撃を受けて小田氏の居城・小田城に入り、東国経営の拠点とする。
親房はここから諸氏に宛てて精力的に軍勢督促を行っているが、大方の武士は利を見て親房の呼びかけには応じようとしなかった。親房が最も頼りにしていた白川親朝も例外ではなく、数十通にも及ぶといわれる督促状を黙殺し続けたのである。
親房は、彼らの所領や官位の昇進を求めるだけで直ちに味方するでもないという打算的な行動に憤慨し、官職の故実書である『職原抄』を著す。また、この小田在城中に『神皇正統記』を執筆し、暦応2:延元4年(1339)秋にはその草稿が完成。これを配布して重ねて軍勢督促を行うも、状況は好転しなかった。
一方の北朝方は高師冬を主将として攻勢をかけ、加えて暦応4:興国2年(1341)の春頃に近衛経忠・小山朝郷らによる藤氏一揆が反親房の運動を起こすと南朝軍は動揺し、同年11月には親房の常陸に入国してより支え続けていた小田治久が北朝へ降伏。親房は事前にこれを察知して春日顕国らとともに関宗祐の関城へ脱出していたが、間もなく顕国の拠った大宝城との連絡を断たれるなど、戦況は芳しくなかった。
そして康永2:興国4年(1343)6月、恃みの綱としていた白川親朝が北朝への帰属を明らかにし、11月には関・大宝の両城は相次いで落城。ここに親房の東国経営は完全に頓挫し、吉野へと没落した。
翌年1月頃に吉野に帰り着いた親房は准三后となって後醍醐天皇の後継・後村上天皇を補佐し、南朝の軍事的指揮者として活躍する。貞和3:正平2年(1347)8月の楠木正行による紀伊国隅田荘の襲撃、同年9月の河内国藤井寺の合戦、同年11月の摂津国住吉の合戦などは親房が指導した作戦行動だったとされる。しかし翌年1月に楠木正行が戦死すると、勢力を強めた高師直の軍勢によって吉野の行宮を焼き払われたため、後村上天皇とともに賀名生(あのう)へ移った。
観応元:正平5年(1350)12月、兄・足利尊氏と不和となった足利直義が南朝への帰順を申し入れてきた際、南朝首脳陣は当初は難色を示したが、親房の進言を容れて直義の帰順を認めている。その結果、観応の擾乱と呼ばれる足利氏の内部分裂が勃発することになる。
そして観応2:正平6年(1351)10月に今度は尊氏・義詮父子が講和を申し入れると親房の希望である「元弘一統の初め」に帰ることを条件として受け入れ、直義追討の命を発布した。この命を受けて尊氏が東下すると、中院具忠を京都へ送り、北朝の崇光天皇と皇太弟の直仁親王を廃して北朝派公卿の更迭を断行し、さらに京都を占拠して北朝政権を接収させ、京都に還幸するために摂津国天王寺に移っていた後村上天皇を石清水八幡宮に迎えている。
北朝を接収して目的を果たした南朝は観応3:正平7年(1352)閏2月、尊氏・義詮父子との和睦は「暫時の智謀」だったとして京都に義詮を攻撃して逐う。しかし即座に義詮が京都を回復すると、後村上天皇をはじめ南朝軍は再び賀名生へ逃れざるをえなくなり、親房もここから抗戦指令を発布し続けることになったが、文和3:正平9年(1354)4月17日に賀名生で死去した。享年62。一説には9月15日に大和国宇陀郡福西荘灌頂寺で没したという。
神・儒・仏に通暁し、前述の『元元集』『職原抄』『神皇正統記』のほか、『二十一社記』『東秘伝』などの著作がある。