小山朝郷(おやま・ともさと) ?〜1346

下野国小山氏第9代。第8代・小山秀朝の嫡男。幼名は常犬丸。通称は小四郎。初名は朝氏。左衛門尉を称す。下野国小山城主。
生年は不詳だが、建武3:延元元年(1336)には幼名の常犬丸を、暦応2:延元4年(1339)には実名の朝氏を名乗っていることからこの間に元服したことがわかり、正中2年(1325)前後の生まれと推測される。
父・秀朝が建武2年(1335)7月の中先代の乱で討死したため幼くして小山氏当主となり、大後家(祖母)の後見を受けていたようである。
この年の8月末には後醍醐天皇から下野守護職を安堵されているが、中先代の乱を鎮圧した足利尊氏が鎌倉に留まって建武政権から離反するとこれに従い、尊氏追討のために差し下された新田義貞率いる軍勢を迎撃した12月の箱根・竹ノ下の合戦では下総国結城氏・長沼氏などの同族とともに尊氏方に与して先陣を務め、その後には新田軍を追撃して京都に向かった足利軍に同陣したようであるが、朝郷は未だ元服していないことから、この軍勢を率いたのは一族の中の別人とみられる。
建武3:延元元年(1336)になると下野国でも足利尊氏と後醍醐天皇の対立を反映して両陣営の抗争が激しくなり、9月には宇都宮の横田原、11月には宇都宮の毛原で、後醍醐天皇方勢力である宇都宮氏と交戦しており、これらの軍功を賞されて建武3年11月に常陸国中郡荘を尊氏の臣で関東執事の斯波家長より預け置かれているが、この宛先は「小山大後家」である。
建武4:延元2年(1337)になると2度目の西征を企てる北畠顕家の進軍路にあたる下野国での抗争は激しさを増し、10月頃には小山城を攻略されて捕虜となったが、白川(結城)宗広の懇願によって許されたという。
この後、白川親朝らの斡旋を受けて暦応元:延元3年(1338)12月末には北畠親房へ請文を進上して南朝方に属すことを伝えたが、その後も不明瞭な態度を取り続け、暦応2:延元4年(1339)から翌年にかけての常陸国駒城合戦に遅参したために陸奥国菊田荘の所領を没収されている。
通説では暦応4:興国2年(1341)5月頃、南朝方の近衛経忠の主導による「藤氏一揆」と称される反北畠親房運動に加わったとされ、康永2:興国4年(1343)4月には常陸国の南朝勢力の総帥・興良親王を居城の小山城に迎えているが、朝郷の南朝への確実な帰順は見受けられない。この頃の小山氏内部では、叔父と思われる小山秀政が南朝寄りであり、弟の氏政との反目も見受けられることから、家中の混乱、あるいは情報が錯綜していたということも考えられる。
旗幟を鮮明にしないまま、貞和2:興国7年(=正平元年:1346)4月13日に没した。