楠木正行(くすのき・まさつら) ?〜1348

楠木正成の嫡男。父の正成が「大楠公」と称されたのに対し、正行は「小楠公」と称される。正成が戦死した建武3:延元元年(1336)には11歳または13歳といわれているから、生年は正中元年(1324)または嘉暦元年(1326)となる。
建武3:延元元年5月、九州より東上してくる足利尊氏を迎撃するために摂津国兵庫に向かう(湊川の合戦)途次、敗死を覚悟していた正成より後事を託されて桜井宿より帰され、河内国に帰ったのちは遺訓を守って大和国吉野行宮(南朝)の後醍醐天皇に仕え、後醍醐天皇の末世には帯刀に任じられる。
一人前の将として名が見えるのは暦応3:延元5(=興国元)年(1340)11月で、河内国の観心寺に自筆の執達状を下しており、既に左衛門少尉に任官している。のちには父の職掌していた摂津守・河内守にも任ぜられて南朝軍の主将となった。
康永3:興国5年(1344)5月、観心寺鎮守社が罹災した際には、後村上天皇に奏上して再建に尽力した。
貞和3:正平2年(1347)8月、正行は紀伊国の隅田党を攻撃。これに対し北朝(幕府)軍の細川顕氏を河内国藤井寺に破って(藤井寺の合戦)摂津国の天王寺・渡辺まで進出、同年11月には山名時氏・細川顕氏の軍勢を摂津国の住吉・天王寺にて撃破した(住吉・天王寺の合戦)。この戦いで楠木勢は山名時氏を負傷させ、時氏の弟・兼義を討っている。また、敗走する中で渡辺橋から落ちて溺れた敵の将兵を救助し、休養させて帰したということが『太平記』に記されている。
立て続けに敗戦を喫した北朝が同年12月に高師泰師直兄弟を大将とする大軍を差し向けると、正行はこれを迎撃するために出陣を決意。『太平記』では、正行は吉野の行宮に参じ、後村上天皇に謁して出陣を奏上。これに対して後村上天皇は「汝を以て股肱とす。慎て命を全うすべし」と翻意を促したが正行の決意は変わらなかった。ついで後醍醐天皇の廟に詣でて、如意輪堂の壁板を過去帳に見立てて弟の正時や従兄弟・和田賢秀(にぎたけんしゅう)以下143名の名を書き連ね、最後に「かへらじとかねて思へば梓弓なき数に入る名をぞとどむる」の歌を記して戦場に向かったと伝えられている。
翌貞和4:正平3年(1348)1月に師泰勢が和泉国へ、師直勢が河内国東条に向けて進撃を開始すると、寡兵の南朝軍は河内国四条畷に布陣した師直の陣を強襲する策をとる。正行は四条隆資の軍勢と連携して県下野守勢、ついで武田信武勢に多大の損害を与え、さらには京極高氏(佐々木導誉)細川清氏・仁木頼章らとの激戦の末に師直の控える本陣まで攻め入ったが、ついには師直を討ち取ることはできず、正時と刺し違えて自害した(四条畷の合戦)。
正行は明治6年(1873)に従三位を追贈され、明治22年(1879)に飯盛山麓の四条畷神社にその霊が祭られることになった。明治30年(1887)、贈従二位。