武田信武(たけだ・のぶたけ) 1292?〜1362?

武田信宗の子。正応5年(1292)5月5日に甲斐国にて生まれたとする説があるが、後述するように前半生は安芸国を本拠として活動しており、信憑性に欠ける。幼名は龍光丸。通称は彦六。修理亮・左馬頭・陸奥守・伊豆守・甲斐守。甲斐・安芸守護。引付衆。
正慶元:元弘2年(1332)、鎌倉幕府軍として上洛し、楠木正成の拠る河内国千早城を攻めた。
建武2年(1335)、中先代の乱を鎮圧した足利尊氏が鎌倉に留まって建武政権に反旗を翻した際、尊氏の軍勢督促に応じ、安芸国銀山城で挙兵し、建武政権方の熊谷氏を攻めている。ついで関東に向かい、12月に尊氏と新田義貞が対決した箱根・竹ノ下の合戦にも参陣した。このとき逸見有朝・波多野景氏・周防親家・吉川師平ら安芸国の国人領主の着到状に証判を加えており、安芸守護あるいはそれに准ずる地位として軍勢を統括していることが覗える。
建武3:延元元年(1336)に室町幕府が興されると足利尊氏に殊遇され、安芸守護に任命された。また、時期は諸説あって不詳であるが、遅くとも観応2:正平6年(1351)9月には甲斐守護職も兼帯している。
観応の擾乱に際しても尊氏に与し、観応2:正平6年11月に尊氏に同行して関東に出陣し、翌年の閏2月には子・信成とともに武蔵野合戦にも従軍した。
この関東下向を機に本拠を甲斐国に移して統治に務めたと見られ、武田氏中興の祖と称される。
延文3:正平13年(1358)4月晦日、尊氏の死没を受けて出家し、安芸守護職と甲斐守護職は子の氏信と信成に相伝された。
康安2:正平17年(1362)1月6日に死去。没年を延文4:正平14年(1359)とする説もある。
『新千載集』に「槻弓の歌」という作品を残す。