武田氏信(たけだ・うじのぶ) 1312?〜1380

安芸・甲斐守護を兼帯した武田信武の子。同じく信武を父とする武田信成の兄とみられるが、史書によっては氏信を二男とするものもある。幼名は徳光丸。通称は彦太郎。甲斐守。妻は信濃守護・小笠原宗長の娘。安芸国佐東郡銀山城主。
元亨2年(1322)3月に元服、烏帽子親の足利貞氏から一字を与えられて氏信と名乗る。
南北朝の動乱期には足利尊氏(北朝方)に与し、安芸国内において南朝勢力と戦った。観応元:正平5年(1350)6月には安芸国の毛利親衡が石見国の三隅兼連と呼応して蜂起したためこれを鎮圧し、翌月には親衡の所領を自領に組み込もうとしたが、親衡の子・毛利元春からの嘆願を受けた高師泰の口入によって断念している。
文和2:正平8年(1353)初頭頃、足利直冬が中国地方に入って威勢が盛んになると再び毛利氏が挙兵。氏信は再度鎮圧のため出撃し、元春の拠った内部城や吉田郡山城などを陥落させたが、親衡の拠る坂城は落とすことができず、毛利氏に11月に足利直冬や南朝勢力からの援軍が派遣されるとこれに敗れた。
延文3:正平13年(1358)4月、父の隠居を受けて安芸守護職を継承する。
おそらくは懐良親王菊地武光を中心とする九州の南朝勢力を鎮圧する任を帯びた今川了俊の軍事力を強化するためであろうが、応安3:建徳元年(1370)末頃(一説には応安元:正平23年(1368))に安芸守護を罷免され、応安4:建徳2年(1371)2月には了俊が備後・安芸国の守護に補任されている。
これに反発した氏信は、太田川(佐東川)流域や広島湾頭に独自の勢力基盤を築き、永和4:天授4年(1378)に安芸国佐東郡の分郡守護に任じられた。
康暦2:天授6年(1380)5月8日に死去。69歳か。法名は慈善寺殿光誠明中大居士。