毛利親衡(もうり・ちかひら?) ?〜1375

安芸国毛利氏の一族。毛利貞親の子。毛利時親の嫡孫。妻は三田(長井)入道の娘。
元亨3年(1323)までには毛利氏が地頭職を持つ安芸国吉田荘に赴き、代官として吉田・麻原郷の経営を担っており、元徳2年(1330)3月に祖父・毛利時親より吉田荘の吉田・麻原の両郷の地頭職と、越後国佐橋荘のうち7百余貫の地および南条館を分与された。
正慶2:元弘3年(1333)閏2月に後醍醐天皇が隠岐国から脱出して討幕の兵を募ると、これに応じて馳せ参じた。
この後の鎌倉幕府滅亡を経て、建武2年(1335)に後醍醐天皇方(宮方、のち南朝方)と足利尊氏方の抗争が勃発すると、親衡と父の貞親は後醍醐天皇方、祖父の時親と子の元春は尊氏方に与したが、建武3:延元元年(1336)10月に北朝を擁した尊氏方優勢のままで和睦が結ばれると、元春からの赦免嘆願を受けた尊氏に降り、許されて安芸国吉田荘に帰国した。吉田荘にはすでに時親と元春が入部しており、貞親も親衡と時をほぼ同じくして下向してきたので、4世代が集住することになった。
帰国後の建武4:延元2年(1337)1月、時親が所領譲渡を見直したことで麻原郷の収益と吉田荘地頭職を譲渡しなおされたが、これらの権利は一期分(一代限り)で、死後には元春に譲渡されるという条件が付されていた。この再編には親衡にも元春にも不満が残され、観応元:正平5年(1350)6月頃に至って再び元春と袂を分かち、石見国の南朝方勢力である三隅兼連に呼応して吉田荘で挙兵したが、北朝(尊氏)方の安芸守護・武田氏信に鎮圧され、一時は三隅氏を頼って石見国に逃れたようである。このため麻原郷を没収されたが、尊氏方に留まった元春がその烏帽子親である高師泰を通じて没収を撤回させている。
しかし観応2:正平6年(1351)2月に尊氏が南朝と結んだ足利直義に降伏すると南朝方の威勢が増大し、高師泰が殺害されたことで尊氏方の後ろ盾を失った元春を庇護する。その後は元春と共闘し、のちに二男・匡時の系統が名字として称す坂の地を含む豊島郷や、吉田荘周辺にも勢力を広げた。
観応3(=文和元):正平7年(1352)4月になると北朝方の武田氏信の攻勢を受けるも、南朝方や足利直冬方勢力の援軍を得て、11月には井原河原の合戦で大勝して武田勢を敗走させた。
貞治5:正平21年(1366)、北朝方で周防・長門守護の大内弘世が石見国、さらには安芸国に勢力を浸透させてくるとこれに降った。しかし弘世が再び北朝に敵対すると親衡もこれに同心し、応安7:文中3年(1374)7月、九州探題の今川了俊に従って九州に出征していた元春の留守を狙ってその本領である吉田郷に侵攻して元春の子・広房らを圧迫した。
永和元:天授元年(1375)8月に死没した。