毛利元春(もうり・もとはる) 1323〜1381

安芸国の国人領主。毛利親衡の子。母は長井三田入道の娘。初名を師親。従五位下・備中守・右馬頭。
安芸国吉田荘に生まれて在国していたが、祖父・毛利貞親が建武新政府に謀叛を起こした阿曽宮に連座して吉田荘の地頭職を没収されると母方の祖父・長井三田入道の庇護を受けた。
建武2年(1335)に元服し、曽祖父・毛利時親の意向で足利尊氏の側近・高師泰の麾下となり、師泰から一字を与えられて師親と名乗る。ただしこのときは未だ師泰に直属しておらず、擬制的な主従関係を結んだに止まると思われる。
同年に尊氏が決起したことを受けて安芸国でも武田信武が尊氏党として挙兵すると元春もこれに加わり、吉田荘の地頭となっていた美乃全元の代官を逐って地頭職を奪回した。
建武3年(1336)、尊氏が西国に下向している間は安芸国にあったが、東上の途上で合流を果たし、師泰の麾下として活動する。この後、畿内では北朝方(尊氏方)と南朝方(後醍醐天皇方)との抗争が繰り広げられ、毛利氏は時親嫡男の貞親と嫡孫の親衡(元春の祖父と父)は南朝方に与し、元春は時親の代理として北朝方に属すという両様の構えであったが、大勢の決した同年7月2日に時親より家督と吉田荘吉田郷などの所領を譲られ、安芸国毛利氏の惣領となる。
この南北朝期の毛利氏には北朝方とも南朝方とも為りうる素養が併存し、そのどちらもが活かされたため、観応元:正平5年(1350)に南朝方として挙兵した親衡が安芸守護・武田氏信の軍勢に敗れて所領を没収された際には、元春が高師泰を通じて没収を撤回させており、観応2:正平6年(1351)2月に高師泰が討たれ、安芸国で南朝方勢力が増大すると、元春は親衡を頼って南朝勢力と共闘するなどして、毛利氏の命脈は保たれた。
貞治5:正平21年(1366)、親衡は周防国の大名で安芸国にも勢力を伸ばしてきた大内弘世に降伏しているが、元春は9月に室町幕府将軍・足利義詮からの招聘を受け、翌年には本領安堵の約束を取り付けたのを機に幕府に接近し、応安4:建徳2年(1371)から永和3年:天授3年(1377)の7年間に亘って、幕府より九州探題として派遣された今川了俊に随従して九州に出征し、応安5年(1372)の筑前国高見(鷹見)城の攻城戦や永和元:天授元年(1375)の肥後国水島陣からの撤退戦などに戦功を挙げた。
この九州出征中の応安7:文中3年(1374)7月には、幕府に敵対した大内弘世と結んだ親衡らが、元春不在の本領を襲撃する。これには子の広房や広内らが防戦にあたって苦戦を強いられるも、永和2:天授4年(1376)2月末に弘世が幕府に屈して撤兵したために窮地を免れることができた。
これらの功績により、帰国後に伝来の所領に加えて、新たに支配下に置いた所領を追認された。
元春は康暦元:天授5年(1379)11月に一族や庶家に宛てて置文を認めているが、ここで一族間の和を崩さないために相互に守るべきことを説き、康暦3:天授7年(1381)1月に子息らに所領の分割譲与を行い、その後間もなく死没した。享年59。