武田信成(たけだ・のぶなり) 1325?〜1394

安芸・甲斐守護を兼帯した武田信武の子。武田氏信・大井信明・穴山義武らの兄弟(長幼の順は不詳)。通称は武田次郎。刑部大輔・安芸守。甲斐守護。
時期は不詳であるが、信成は父の信武に先だって甲斐国に入部して守護代的な地位にあったことがうかがわれる。暦応2:延元4年(1339)には甲斐国府(甲府)の一条一蓮寺に土地を寄進しているので、このときには甲斐に入国していたのであろう。
観応の擾乱に際し、観応2:正平6年(1351)11月に足利尊氏とともに関東に下ってきた信武と連携して出陣し、その後の観応3(=文和元):正平7年(1352)閏2月の武蔵野合戦にも、尊氏方として甲斐国の軍勢を率いて出陣している。
延文4:正平14年(1359)7月、前年に出家した信武より甲斐守護職を譲られる。この甲斐守護については応安元:正平23年(1368)10月までは信成の在職が確認できるが、その後は不詳となり、応安6:文中2年(1373)9月から至徳2:元中2年(1385)3月の間は子の武田信春がその地位にあったようだが、明徳5年(=応永元年:1394)には再び信成の名が見える。この父子交代に至る経緯は不詳である。
信成は臨済宗の高僧・抜隊得勝に帰依し、永和4年:天授4年(1378)に得勝が甲斐国の塩山高森(竹森)の地に草庵を結んだ際、領主であった信成は寺領を寄進し、康暦2:天授6年(1380)に向嶽寺を創建した。
明徳5年6月13日没。法名は継統院殿雪窓光喜公大禅定門。享年70とされるが、享年80とする史料もある。