細川顕氏(ほそかわ・あきうじ) ?〜1352

細川頼貞の子。細川定禅・皇海の兄。細川和氏頼春の従兄弟。通称は小四郎。兵部少輔・陸奥守。侍所頭人・引付頭人も務めた。
元弘の乱以来、足利尊氏に従って活動。正慶2:元弘3年(1333)の建武政権の樹立後、相模国鎌倉に赴任した足利直義に付されたとみられ、建武2年(1335)7月に北条時行が蜂起して鎌倉に侵攻した際、支えきれずに直義とともに三河国まで敗走している(中先代の乱)。
尊氏が建武3:延元元年(1336)1月の京都攻防戦に敗れて西走する途次の2月、再挙の布石として細川一族が四国に分遣された際には、従兄弟の細川和氏らとともに恩賞を宛行う権限を委ねられた。また、これと併せて河内守護、同年4月には土佐守護に任じられており、建武4:延元2年(1337)4月に和泉守護、5月に阿波守護、8月には讃岐守護に任じられて畿内近国の統治を任されたほか、侍所頭人に任じられた時期もあり、その信任の厚さを窺い知ることができる。
建武5(=暦応元):延元3年(1338)には陸奥国より西上してきた北畠顕家の軍勢と戦い、3月の摂津国住吉での戦いには破れたが、5月の和泉国石津での戦いで高師直らの援軍を得て勝利した(北畠顕家の征西:その2)。
康永2:興国4年(1343)1月頃には北朝より陸奥守(国司)に任じられるが、赴任はおろか目代さえも派遣しなかった。
貞和3:正平2年(1347)8月に楠木正行が河内国にて挙兵するとその鎮圧を命じられたが、9月の河内国藤井寺合戦で敗れ、次いで11月には山名時氏の援軍を得て戦ったが再び敗れ(住吉・天王寺合戦)、河内・和泉守護を更迭された。
この没収された両守護職が高師泰に与えられたことから高兄弟に反発するようになったともいわれ、貞和5:正平4年(1349)の秋頃には高師直との反目によって失脚した足利直義を錦小路の自邸に迎えており、観応元:正平5年(1350)10月末に足利尊氏・高師直らが足利直冬を征討するために出陣した際、当初はこれに従って出陣したが、この後に直義が南朝と結んで挙兵に及ぶと、播磨国あたりで離脱して讃岐国に帰国して兵を募り、翌観応2:正平6年(1351)2月に軍勢を率いて渡海し、京都制圧を企てた直義勢に加勢した(観応の擾乱)。
まもなく直義が復権を果たすと引付頭人に任じられ、土佐守護にも任じられたようであるが、この頃より直義と距離を置き始めたことが窺われ、同年8月に直義が北陸に出奔した際にはこれに同行しておらず、京都に留まって尊氏に帰順し、これと前後して和泉守護に復している。
観応3(=文和元):正平7年(1352)閏2月に楠木正儀を主力とする南朝軍が京都に侵攻した際には防ぎきれなかったが、3月には逆襲に転じ、幕府軍の大将として岩清水八幡宮に籠城する南朝軍を攻め、5月にはこれを攻略。しかし同年7月5日に病死した。