四条畷(しじょうなわて)の合戦

暦応2:延元4年(1339)8月16日、南朝の後醍醐天皇が崩御した。後醍醐天皇はその前日に皇子の義良親王に譲位しており、この義良親王が践祚して後村上天皇となる。
この頃は未だ南朝と北朝の抗争は続けられていたが、南朝方では北畠親房が東国経営に力を注いでいたこともあって畿内では大規模な戦闘もなく、比較的平穏な時期だったといえる。
しかし貞和3:正平2年(1347)8月に至って南朝方の主将である楠木正行が河内国で挙兵して紀伊国の有力武士団・隅田党を攻撃し、摂津国へ進出して焼き討ちを行うなどした。これに対して幕府(北朝方)は、河内・和泉・讃岐の守護を兼ねる細川顕氏を大将に任じて軍勢を派遣したが、9月17日の河内国藤井寺合戦で楠木勢に大敗を喫した。そこで幕府は丹後・伯耆・隠岐守護の山名時氏の軍勢を増援軍として派遣したが、11月26日、顕氏以下の幕府軍は和泉国堺および摂津国住吉・天王寺と連敗したのである。この戦いで時氏の弟・兼義らが戦死し、時氏自身も負傷するという大損害を被っている。
この事態を受けて幕府は高師泰師直兄弟を派遣することを決め、師泰に細川顕氏から没収した河内・和泉守護職を付与して指揮権の強化を図っており、幕府も威信をかけて正行の討伐に臨んだことがうかがえる。

12月14日には師泰の軍勢3千余騎が出陣、これに四国・中国地方などからの軍勢が加わって総勢2万余騎にもなったという。この師泰の率いる軍勢はいったん山城国の淀に駐留した。
ついで26日、幕府は高師直を総大将とする大軍を編成して京都から出陣させた。その兵力は師直の直轄軍が7千余騎、これに諸国の軍勢が付されて6万騎にも及んだという(『太平記』)。
師直も山城国の八幡に留まり、ここで越年している。
年が明けて貞和4:正平3年(1348)1月2日に淀・八幡からそれぞれ発向した高兄弟は楠木正行の根拠地河内東条城に向かい、師泰勢が西から攻めるために和泉国堺浦に進出、師直勢は南進して河内国に至って四条畷に本陣を置き、他の武将もその周囲に布陣した。

戦端は1月5日の朝に開かれた。公卿の四条隆資率いる南朝軍の別働隊が、幕府方で飯盛山に陣取る白旗一揆の部隊を攻撃したのである。これは白旗一揆および秋篠・外山の峰に布陣する大旗・小旗一揆が師直を援護することを牽制するための作戦であった。そして正行の本隊である精兵3千が師直の本陣めがけて突進を開始する。兵力で大きく劣る正行は、敵本陣を直接攻撃して総大将の師直を討ち取ろうという、乾坤一擲の策に出たのである。
白旗一揆の県下野守は四条隆資隊の進出を陽動作戦と見破って正行隊に迫ったが、正行隊はこれを破り、安芸守護・武田信武の部隊も破る。正行隊の後陣は小旗一揆と京極高氏(佐々木導誉)の部隊によって壊滅したが、前陣は構わず突進し、細川清氏・仁木頼章・千葉貞胤などの部隊を蹴散らし、ついに師直の本陣に突入したのである。
師直本陣では伊予守護の細川頼春や遠江・駿河守護の今川範国、さらに三河守護の高師兼、伊賀守護の高師冬、備中守護の南宗継といった高一族の武将も控えていたが、楠木勢の勢いに押されて総崩れとなった。しかし師直は、上山六郎左衛門(あるいは長井修理亮)の身代わりなどによって窮地を脱することができたのであった。
楠木勢は無勢ながらも敵本陣にまで斬り込んで混乱に陥れる善戦ぶりを見せたが、師直を討ち漏らしてしまうと如何ともし難く、主将の正行・正時兄弟は刺し違えて自害した。
正行配下の和田新発意(和田賢秀)は、師直の陣に紛れ込んで討とうとしたが、顔を見知っていた湯浅本宮太郎左衛門に見破られて討たれたという。

この四条畷の合戦で南朝軍を撃破した幕府軍は、1月8日に高師泰の軍勢が河内国石川河原に進出。一方の師直は15日に大和国平田荘に進み、そこから南朝の本拠である吉野に軍勢を進めたが、この軍勢が吉野に到着したときには、後村上天皇以下南朝皇族・公家たちは吉野を放棄し、賀名生まで撤退していたのである。