今川範国(いまがわ・のりくに) 1295?〜1384

今川基氏の子。母は香雲院。兄に頼国・範満・僧となった大喜法忻(仏満禅師)がいる。幼名は松丸。通称は五郎。心省と号す。生年については永仁3年(1295)、永仁5年(1297)、嘉元2年(1304)などの諸説がある。遠江・駿河守護。
足利尊氏が建武政権に背いたのち、尊氏・直義兄弟に従って各地を転戦し、建武3:延元元年(1336)頃に遠江守護に任じられて暦応元:延元3年(1338)頃まで在任。なお、建武政権期の建武元年(1333)にも守護職にあったと見られており、足利政権期にも引き続いて補任を受けたものと思われる。
遠江守護はその後、仁木義長・千葉貞胤・高師泰らが任じられたが貞和5:正平4年(1349)に範国が再任され、その後も一時的には仁木義長や範国の子・範氏などが補任される時期もあるが、おおむね死去までその任にあった。
一方の駿河守護は少なくとも暦応元:延元3年からその任にあったことが知られるが、文和2:正平8年(1353)に範氏と交代しており、以後、遠江・駿河両国の守護職は今川氏が継承するようになっている。
範国はこの両国の守護として一族や被官、在地の中小武士等を軍事的に組織化し、東海道における北朝・幕府軍の前衛として南朝勢力を抑制した。また観応3(=文和元):正平7年(1352)3月から貞治6:正平22年(1367)6月まで幕府の引付頭人を勤めている。戦国時代の義元の代に『東海一の弓取り』と称される今川氏の威勢の基礎は、この範国の頃より培われたものである。
観応の擾乱」と呼ばれる足利尊氏・直義兄弟の分裂抗争に際しては、貞和5:正平4年には尊氏の執事・高師直方に加担しているが、退勢を挽回した直義が観応2:正平6年(1351)1月に京都に迫るとこれに属し、同年9月には近江国醍醐寺での法楽和歌に尊氏と同席するなど、時勢を見るにも敏であった。
知識の吸収に旺盛で、尋ねて聞き得たことを使い古しの紙を綴じたものなどに書き付けていたといい、少年期より母・香雲院より和歌の手ほどきを受けてその才を磨き、冷泉派の和歌をよくした。また武家故実にも通じ、2代将軍・足利義詮の矢口開き(初めて矢を射る儀式)を指導している。これら文武に亘る資質は子の了俊(貞世)に受け継がれていった。
至徳元:元中元年(1384)5月19日に没した。法名は定光寺悟庵心省。