石塔義房(いしどう・よしふさ) ?〜?

石塔頼茂の子。足利泰氏の孫にあたる。宮内少輔。法号は義慶・秀慶。
建武新政期の建武元年(1334)、足利尊氏から代官として駿河・伊豆両国の守護代に起用され、暦応元:延元3年(1338)の尊氏による室町幕府開設後はそのまま両国の守護に昇進したとみられる。
建武4:延元2年(1337)2月、尊氏(北朝)より奥州総大将に任じられて陸奥国に入部。これは、当時、奥州総大将と鎌倉府執事を兼任していた斯波家長を支援するために専任の軍政官として抜擢されたものと思われ、家長の陸奥守就任と期をほぼ同じくしている。また、南朝方の陸奥守である北畠顕家に対抗すべく奥羽での権限を全面的に委任されており、軍事・調略など多面的な活動で国人領主層の掌握に努めた。
暦応4:興国2年(1341)の秋頃、多賀国府奪還を目論む北畠顕信が栗原郡三迫の津久毛橋城に拠っていたが、10月には陥落させて顕信を出羽国に逐った(三迫合戦)。
康永2:興国4年(1343)を画期として軍事指揮権を子の石塔義元に一任し、自らは奥羽全域の統治権支配の確立に乗り出した。
康永4(=貞和元):興国6年(1345)8月には京都で行われた天龍寺供養に供奉しているが、幕府の行政機構に新しく奥州管領制が発足して同年9月に吉良貞家・畠山国氏の両名が任じられるにあたり、義房は奥州総大将を解任された。これに不満を抱き足利直義党となった。
観応の擾乱に際しては足利直義に従って尊氏方を攻め、観応元:正平5年(1350)12月には、尊氏方の高師冬の奉じていた尊氏の子・光王(のちの足利基氏)の奪取に功があり、以後上杉憲顕と共に光王を補佐し、翌年に再び伊豆守護となった。
観応3(=文和元):正平7年(1352)の直義の没後は立場を失うも助命され、鎌倉に逼塞した。しかし間もなく新田義興義宗兄弟から誘いを受けてこれに与し、同年閏2月には新田義興と共に鎌倉を一時は占拠したが(武蔵野合戦)、翌月に鎌倉は尊氏に制圧されている。
その後の事績は詳らかでないが、畿内で足利勢への抗戦を続けたとされ、文和4:正平10年(1355)1月には足利勢と摂津国兵庫で戦っているが、同年3月に尊氏が京都を回復したことによって没落したという。