足利氏の支族・吉良経家の子。修理権大夫、のち右京大夫。
建武元年(1334)1月、足利直義によって関東廂番の三番頭人に挙げられ、暦応3:興国元年(1340)から康永3:興国5年(1344)までの5年間は直義主導の幕府引付頭人を勤めた。
康永4(=貞和元):興国6年(1345)9月、室町幕府が奥州総大将(石塔義房)に代わる新しい統治機構として奥州管領を設置した際に畠山国氏とともに奥州管領に任じられ、貞和2:正平元年(1346)頃から陸奥国安達郡四本松(塩松)城に拠り、畠山国氏とともに伊達郡の霊山城や田村郡の宇津峯城に拠る南朝軍と戦い、翌年の秋頃にはこの両城を攻略した。ついで貞和4:正平3年(1348)から翌年にかけて、岩手郡滴石城に拠っていた南朝勢の首魁・北畠顕信を攻撃するため、海道の伊賀一族や中奥の和賀一族らを率いて磐井平泉まで出陣している。
しかし中央政局で足利直義と高師直の対立に端を発した観応の擾乱が勃発すると、その影響は陸奥国にも波及し、直義方であった貞家は、足利尊氏・高師直方の畠山国氏を観応2:正平6年(1351)2月に府中の岩切城に攻めて自刃させ(岩切城の戦い)府中を掌握したが、この内訌を機と見て反攻に出た北畠顕信らの攻撃を受け、同年10月に多賀国府を落とされた。
直義と尊氏の抗争が決着した同年末以降は尊氏に帰順したとみられ、翌観応3(=文和元):正平7年(1352)3月には府中を奪還し、翌年5月には宇津峯城を攻略して顕信を没落させ、陸奥国での武家方(北朝)の優位をほぼ確実なものとした。
生没年ともに不詳であるが、貞家の発給した文書は文和2:正平8年(1353)12月を最後として途絶えており、その後間もなくして没したようである。