桃井直常(もものい・ただつね) ?〜?

名を「なおつね」とも読む。桃井貞頼の子。従五位上・駿河守・刑部大輔・右馬権守・播磨守。若狭・伊賀・越中守護。引付頭人。
桃井氏は足利義康の孫・義胤を祖とする足利一門で、上野国群馬郡桃井を名字の地とする。
正慶2:元弘3年(1333)5月の新田義貞鎌倉攻めに加わったらしいが、その後に新田氏と足利氏の間に反目が生じると足利氏に従い、建武4:延元2年(1337)12月に後醍醐天皇の命に応じて上洛を目指す北畠顕家が陸奥国の大軍を率いて鎌倉に来襲すると、足利義詮のもとでこれと戦い、顕家の軍勢を追ってそのまま上洛し、美濃国青野原や大和国の南都で奮戦するなど、大功を挙げた(北畠顕家の征西:その2)。
暦応元:延元3年(1338)以降は若狭・伊賀・越中守護を歴任し、暦応4:興国2年(1341)3月の塩冶高貞の討伐にも功績を挙げた。
足利直義足利尊氏の執事・高師直の対立(観応の擾乱)においては直義党の中心的人物として活躍し、観応2:正平6年(1351)1月には近江国坂本付近に布陣して京都の義詮を圧迫して退去させ、のちには義詮と合流した尊氏軍と激しく戦い(観応2:正平6年の京都攻防戦)、この功績で引付頭人に任じられた。
この京都攻防戦、同年2月の摂津国打出浜の合戦を経て直義と尊氏は和議を結ぶが、まもなく破綻すると、直義に北陸地方に退避することを進言して容れられているが、直常はこの頃には越中守護を解任されていたようである。
同年9月、尊氏・義詮らが近江国に進撃すると、畠山国清らとともに出陣してこれを迎撃した。この後、近江国錦織興福寺で直義・尊氏が対面して和睦交渉を行っているが、『太平記』ではこのときに直常が反対論を唱えたことから、交渉がまとまらなかったとする。直常は直義党随一の強硬派であった。
この後、直義は相模国鎌倉に拠点を移すことになるが、これも直常の進言ともされる。
翌観応3(=文和元):正平7年(1352)2月に直義が死去したのちも尊氏に抗し、南朝勢力と結んだ足利直冬(直義の猶子)が文和3:正平9年(1354)に西国から京都に向けて進撃を開始すると、これに呼応して越中国から出陣し、文和4:正平10年(1355)1月には直冬を擁した山名時氏や石塔頼房・斯波氏頼・南朝勢力らとともに京都を制圧しているが、同年3月には尊氏らによって奪回された。
この後はいつしか関東公方・足利基氏の庇護下に入り、貞治6:正平22年(1367)4月の基氏の死去とともに出家、幕府に復帰したという。同年には弟・直信が越中守護に任じられていることからも、直常の政治復帰は裏付けられよう。しかし翌応安元:正平23年(1368)には越中国に至り、一族とともに、同年に越中守護に就いた斯波義将と抗争に及んでいる。
翌年4月に再び越中国で挙兵して能登国に攻め入ったというが、詳細は不詳。数年を経ずして斯波勢に鎮圧されたと思われる。