塩冶高貞(えんや・たかさだ) ?〜1341

佐々木一族。塩冶(佐々木)貞清の嫡男。近江守。
正中3年(=嘉暦元年:1326)の父の死後、出雲守護職を継ぐ。
正慶2:元弘3年(1333)閏2月に後醍醐天皇が配流地の隠岐国から脱して伯耆国船上山に挙兵すると、天皇に隠岐脱出を進言した富士名義綱とともに1千余騎の軍勢を率いて一番に馳せ参じ、その功績もあって建武政権下でも出雲守護に任じられ、就任の時期は不詳であるが隠岐守護も兼帯するようになる。また、建武元年(1334)に雑訴決断所が改変された際には、北陸道を担当する4番局の職員に任じられた。
建武2年(1335)、中先代の乱を鎮圧した足利尊氏が鎌倉に拠って建武政権に叛くと、その追討を命じられた新田義貞の軍勢に属して関東に出陣したが、同年12月の箱根・竹ノ下の合戦の際に大友貞載とともに尊氏方に寝返って足利方の勝利に寄与し、室町幕府の発足後も引き続いて出雲・隠岐国の守護職を安堵されている。
しかし暦応4:興国2年(1341)3月24日、にわかに京都を出奔したために幕府から桃井直常山名時氏らを追手として差し向けられ、29日に播磨国影山で追討軍に追いつかれて自害したとの報が京都にもたらされているが、一説には4月3日に出雲国意宇郡宍道郷にて自害したともいう。
この高貞の出奔の理由を、『太平記』では美貌で知られた高貞の妻に高師直が横恋慕し、これを奪うために陰謀を捏造して尊氏らに讒言したとしているが、出奔当日の3月24日付で足利直義が出雲鰐淵寺衆徒などに発した軍勢催促状には「高貞が陰謀を企てて逃亡したので誅伐せよ」との旨が記されており、南朝方に通じていたということも推察される。