大友貞載(おおとも・さだのり) ?〜1336

名を「さだとし」とも読む。豊後国大友氏第6代当主・大友貞宗の二男。母は不詳。第7代・大友氏泰の庶兄。幼名は阿多々丸。通称は立花三郎。左近将監。大友氏庶流の立花氏の祖。
正慶2:元弘3年(1333)3月、父の貞宗らとともに筑前国博多の鎮西探題館に出仕(菊池合戦)。このときに認められたと思われる貞宗の譲状において、五男の千代松丸(のちの氏泰)を後継者とし、貞載らはその家臣に位置付けられている。
同年12月に貞宗が没すると氏泰があとを継いで大友氏惣領になるが、未だ若年であったため、名代として氏泰を補佐した。
翌元弘4年(=建武元年:1334)1月に鎌倉幕府残党の糸田貞義が筑後国堀口城に拠って挙兵すると、3月にはこの鎮圧のために出陣し、7月に攻め落とした。
建武政権下では氏泰に代わって出仕し、建武2年(1335)の中先代の乱を鎮圧した足利尊氏が同年11月に鎌倉に留まったまま建武政権より離反したことが明らかとなると、新田義貞の軍勢に属して尊氏追討のため鎌倉に向かうが、12月の箱根・竹ノ下の合戦の最中に足利方に降伏し、以後の戦いでは奮戦して足利方の勝利に寄与した。
この後、新田勢を追撃して京都へ向かった尊氏に従軍したと思われ、翌建武3:延元元年(1336)1月11日には尊氏に降ってきた南朝方の白川(結城)親光を、偽りの疑いありとして審問したが、その最中に親光に襲われて重傷を負い、翌12日に没した。