大友氏泰(おおとも・うじやす) 1321〜1362

大友氏第7代当主。第6代・大友貞宗の五男。母は少弐貞経の女。幼名は千代松丸。式部丞。豊後・豊前・肥前・日向守護。
氏泰は五男であるが、正慶2:元弘3年(1333)3月、鎮西探題襲撃(菊池合戦)に臨む貞宗が、貞順・貞載ら氏泰の4人の兄たちを同行させたことから、当時13歳で元服以前だった氏泰を家督に定め、豊後守護職や所領のすべてを譲られた。
同年5月の再襲撃(博多合戦)によって鎮西探題は陥落し、貞宗や兄らは生還したが、同年12月に貞宗が没し、名実ともに氏泰が大友氏当主となったが、未だ若年であったために兄・大友(立花)貞載を名代として補佐を受けた。また建武元年(1334)には肥前守護として名が見えているが、討幕の勲功として建武政権より補任されたものであろう。
建武2年(1335)に大友氏は後醍醐天皇より上洛を要請されており、貞載がこれを受けて上洛したことは確実であるが、氏泰の動向は不詳。しかし同年8月に関東で中先代の乱を鎮圧した足利尊氏が建武政権に反旗を翻し、京都に攻め上ってくると貞載は足利方に転じており、氏泰も翌建武3年(1336)1月には氏泰も尊氏の弟・足利直義の要請に応じて近江国坂本に出陣している。
京都を撤退した尊氏が同年2月末に九州入りするとこれを支援。この間の2月15日付の尊氏からの書状には、氏泰を猶子とする旨が記されている。なお、この宛名が大友千代松となっていることから、この時点では未だ元服していなかったことがうかがえる。
同年3月の多々良浜の合戦ののちに尊氏が上洛したときにも随行したようだが、暦応3:延元5年(=興国元年:1340)頃に帰国し、九州における北朝勢力の支柱となった。この後の建武4年(1337)までには日向守護にも任じられている。
貞和4:正平3年(1348)8月18日、嗣子がなかったため家督や所領を弟の氏時に譲る。また観応2:正平6年(1351)に北朝より豊前守護に補任されたが、これも翌年に氏時に譲っている。
貞治元:正平17年(1362)11月3日死去。享年42。法名は独峰清巍。号は道世。