多々良浜(たたらはま)の合戦

建武2年(1335)8月に中先代の乱を鎮圧した足利尊氏は、鎌倉幕府の旧地である若宮小路に新邸を築き、鎌倉に留まっていた。8月末には後醍醐天皇より帰洛を促す勅使も下されていたが、これに応じようとはせず、9月下旬には諸将に恩賞として所領を宛行うなど、武家政権の棟梁を意識した行動を取っていた。また、尊氏の弟・足利直義は11月2日付で新田義貞討伐の檄文を発し、同18日には新田討伐を天皇に請う尊氏の奏状が京都にもたらされている。
ここに尊氏の建武政権への叛意は明らかとなり、翌19日には尊良親王を奉じる新田義貞に率いられた追討軍が発向したが、尊氏はこの軍勢を12月11日に箱根で迎撃して破り(箱根・竹ノ下の合戦)、敗走する新田軍を追って京都へと迫った。
翌建武3年(1336)1月11日に尊氏らは京都を陥れたが、陸奥国から尊氏を追撃してきた北畠顕家の軍勢に敗れて丹波国篠村に退き、2月には京都奪回を目指して摂津国の兵庫島へ陣を移し、10日には打出浜に、11日には豊島河原にて天皇軍と戦ったが敗れた。
この夜の軍議において、赤松則村(円心)は「京都へ侵攻したとしても、味方は疲れていて京都の軍勢を破ることはできないだろう。むしろ、ここは一旦西国へ下って士気を高め、軍備を整えてから再び上洛するべきだ」と進言した。また、「京都軍は官軍の印である錦の御旗を立てているが、足利軍にはそれがないから朝敵同前。持明院(光厳上皇)に院宣を請い、錦の御旗を立てるべきである」とも指摘され、尊氏をこれを容れたのである。
そして尊氏は西国へと向かう。途中の播磨国の室津において軍議を開いて山陽道や四国の諸将の配置を定めて追撃阻止の対策を練り、2月中旬には備後国の鞆において光厳上皇からの院宣を得た。これによって尊氏は後醍醐天皇の朝敵ではなく、光厳上皇の軍勢としての地位を得たのである。

2月20日、尊氏は本州西端の長門国赤間ヶ関に着き、29日には海を渡って筑前国芦屋に入った。
筑前国は少弐氏の守護領国で、少弐氏当主の少弐貞経は子・頼尚を赤間ヶ関に尊氏の迎えに遣わし、自らは太宰府に残って留守を守っていた。しかしこの機を狙って、後醍醐天皇方の菊池武敏が阿蘇大宮司の阿蘇惟直と結んで兵を動かしたのである。
3千の兵を率いた武敏は、水城の渡しで少弐方の兵を破って大宰府に攻め入った。残された兵では菊池勢に抗しきれないと判断した貞経は、太宰府の北東に位置する有智山(内山)城に籠城したが、菊池勢は2月28日よりこの城に総攻撃をかけ、翌日に陥落させた。このとき貞経は自刃したが、尊氏に忠節を尽すように遺言したという。
因みにこの日、京都(後醍醐天皇方)では改元が行われ、建武3年は延元元年となっている。
3月1日、尊氏は少弐頼尚らと共に芦屋を出発し、夕刻に宗像大宮司の館である白山城に移った。この夜、少弐貞経が一族と共に討死したことが足利勢の陣中に伝えられたが、頼尚は味方の士気を落とさぬように、これを虚報であるとして否定したという。また、菊池勢が博多に出張ってきたことも伝えられ、菊池勢との一戦は避けがたいものとなったのである。

3月2日の朝に足利勢は出陣し、香椎宮を背後にした赤坂と松原の間の山地に布陣。一方の菊池勢は多々良川の南、筥崎の松原を背にして北に進もうとしていた。史書によって相違はあるが、菊池勢の軍勢は4万騎とも5万騎ともされ、対する足利軍はわずか3百騎、少弐軍などを合わせても1千騎ほどであったという。しかも打出浜・豊島河原の合戦にて武器や武具の大半を失い、馬も鎧もない兵が大半を占めていたという。
兵力差においては絶望的であったが、勝利の可能性がないわけではなかった。少弐頼尚は「敵は大勢だが菊池の本隊は3百ほどで、残りは本来が味方となるはずの者だ」と進言し、圧倒的兵力を誇る菊池勢だが、その大多数が戦況しだいで有利な方へ着こうとする『浮動兵』であることを見抜いていたのである。
また、地の利は丘陵地に布陣した足利勢に有利であった。足利勢は軍勢を二手に分け、京都から行動を共にしてきた高師泰・大友・島津・千葉・宇都宮ら3百余騎を先陣として直義に率いらせ、尊氏は本陣に控え、少弐頼尚ら5百余騎を別働隊として、全員が馬に乗らず布陣した。
戦いが始まると、菊池勢は兵数を恃んで足利勢を切り崩しにかかったが、地の利を得た足利勢も果敢に迎撃した。ちょうどそのとき、足利勢の方角から菊池勢に向けて、一陣の風が浜の砂を巻き上げながら吹き荒れたのである。風下に位置していた菊池勢は砂塵の中に巻き込まれ、兵たちの隊列が乱れた。これを見た足利勢の先陣は、足利直義の指揮のもとに菊池勢の中に討ち入ったのである。
瞬時の隙を衝かれた菊池勢は勢いに乗る足利勢に押し込まれ、博多の州浜まで追い詰められた。しかし大兵を擁する菊池勢もやがては立ち直り、再び多々良川まで押し返してきたのである。
直義は自らが楯となって菊池勢をくい止める決死の覚悟を告げ、直垂の右袖を尊氏に届けるよう使者に伝えた。これを受け取った本陣の尊氏は、いったん退いた兵をまとめて突撃を敢行し、少弐頼尚や直義もこれに触発されて敵陣めがけて斬り込み、足利勢の全軍が総突撃の様相となった。
やがて菊池勢の一角が崩れて潰走を始めた。こうなると少弐頼尚の見立てたとおりに浮動兵の中から足利勢に寝返る者も出てきて、寝返りは新たな寝返りを引き起こし、あたかも雪崩が起こったかのように足利勢が強大になっていったのである。
戦いは、夕刻に足利勢の勝利で終わった。尊氏は直ちに本陣を筥崎に移し、翌3日には九州の諸豪に対して、菊池氏をはじめとする後醍醐天皇勢力の追討を命じた。同時に尊氏は足利勢の勝利を九州中に伝えさせたのである。
菊池武敏は居城の肥後国隈部城に逃げ帰り、3月11日より足利方の仁木義長・一色範氏らの攻撃を受けて落城したが、城を落ち延びて身を隠している。
阿蘇惟直・惟成兄弟は肥前国の天山(小杵山)において、一族郎党と共に討死した。秋月種道は大宰府まで逃げ延びたものの、追討軍によって一族20人ほどが討ち滅ぼされた。
尊氏は3月3日から1ヶ月間、大宰府に留まっている。この間、後醍醐天皇方の討滅と論功行賞による九州掌握の手配りに精力を注いでいたのである。

そして3月下旬、赤松則村や石橋和義より、尊氏の東上を促す急使が送られてきた。これまでは播磨国の白旗城や備前国の三石城で追撃する新田軍を抑えていたが、兵糧の欠乏などから、これ以上の長期戦に耐えられない、とのことであった。
この報を受けて尊氏・直義らは4月3日に太宰府を出発し、東上の途についたのである。